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2007年5月

2007年5月13日 (日)

残念なドラマじゃのう

昨夜のめぞん一刻は、予想どうり残念な出来じゃった。まずキャスティングがね、僕の思うところとは当然ちがうわけでして、しゃーないなぁこればっかりはね。伊東美咲キレイですよね。でもやっぱり違うでしょ、年齢的にも違うでしょ、22~3歳の女優でなくちゃでしょ、役作りもどうなのよってかんじですよね、おっとりとしてちょっと鈍い、若いのにかわいいってよりは美人の高根の花、世話焼きではやとちりでヤキモチ焼きで早くに愛する夫に先立たれた事からくる憂いというか翳りというかしかしてそれを内に秘めているという難しい役どころでしよ、演じきれてないよね~残念!ってじゃあ誰ならいいのよって言われるとちと困るですよ、もっと若い頃の井川遥なら響子さんのイメージに合うかな~、演じきれるかわ別としてね、あ、柳沼淳子ってのもちょっといいかも、もちろんもっと若い頃のだけど、演技出来るんかしらないけどね、じゃあいないじゃん!無理か?無理だろ、だっていまだにあんな女性に会った事ない・・・・いや、一人いた、かなり響子さんな人が、なにをかくそう名前からして響子だもの!髪も長くって言葉づかいも若いのにしっかりしていて世話好きでほんとよく気がつく子でたしかに響子さんほどふくよかじゃなかったけどキレイとかわいいがうまく合わさっているというか、限りなく響子さんじゃん!いや、そりゃあつきあってたわけじゃないんで響子さんほどはやとちりで鈍いかまではわかんなかったですよ、でも彼女は響子さんだよな~やっぱ、あ~ぁ逃した魚は大きいってか?今何処で何してんだろ響子ちゃん、今もどっかのホテルに勤めてるのかなあって話がそれたな、とにかく言いたいのは日本の芸能ってやつはまだまだってことですの、アパートのセットにしても古いんだか新いんだかわかんない人が住んでるような質感が感じられないのでしょまだまだあるよ~一の瀬夫人も柴田りえかピン子かな~朱美は違うでしょ明らかに!四谷は高田純二か関根勤でお願いしまっす、それがダメならいっその事全員オーディションで新人使っちまえよ!ひらきなおっていなおってぐだぐだなドラマ作っちゃってくれたほうが話題になったりして、中途半端にいい役者使ったりすると逆に痛々しいっつーの、まさか続編ありかいこれ?終わり方があやしいぞ!やめようよ、殿ご乱心を~--ppp

高橋留美子の感想聞きたいのう

2007年5月12日 (土)

実写版めぞん

今夜ついにめぞん一刻のドラマが放送だって。僕勘違いしてましたわ。連ドラになるのかと思ってたら、スペシャルドラマだったんだ。がっかりなようなホッとしたような。

しかしあの漫画を2時間ドラマで再現するってのはむりでしょ。まったくの別ものと思って見たほうがよさそうだ。原作全巻読み直したくなってきた。

2007年5月 8日 (火)

仕事の合い間に

連休も結局有効に使えなかった。やれやれ、4連休あったのに3日の日は引きこもりだった。どうせなら、去年のように今日は一日アニソン三昧!ってやってくれりゃいいのに、今年は4月の30日にやってたな。その日は仕事だったから、途中からしか聴けなかった。年一回の番組なのに!

4日は服でも買おうと出掛けたが、いろいろ巡ったすえに新宿でユニクロのシャツ買って終わり。また妥協しちまった。さらにどこで食事すっかなんっていろいろ巡ったすえに、よしのやの牛鍋定食とは。代々木公園のフリーマーケットをひやかして帰った。京成に乗ればよかったが、常磐線に乗ったせいでやけに時間かかったけど、めぞん一刻には間に合った。

5日、また性懲りもなく出掛けた。用もないのに。上野でぶらぶらしてから、なぜかダビンチの受胎告知を観るべく国立博物館へ。すごい絵なのは分かるけど、俺好みの絵ではないな。芸術ってのは難しいですのう。なんてゆうか宗教芸術ってちょっと不気味なとこあるな。ああいうのを観ると、中世って時代は暗い雰囲気だったんだろうなって思う。

上野公園で絵本市みたいなのやってた。志茂田かげき氏が本売ってたけど、興味ないから帰った。その夜は、深夜2:00から放送(J-WAVE)のロケットマンショー、アーリーモーリー、ロハスサンデーをひたすら聴くといういつものながれで6日を向かえた。

6日。引きこもり。以上、俺の連休は終わった。

これを更新している今は残業中なのである。ただ、待ち時間が長いから家に帰ってきてしまった。

これからカレーを食べて、また出勤。

2007年5月 3日 (木)

正しく生きるとはどういうことか

正しく生きるとはどういうことか

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池田 清彦:著

新潮社,1998

☆☆☆

 

 【法律はもちろんのこと、道徳や倫理だって人間のつくった決まりです。
それならば、いっそのこと自分なりの規範をつくってしまっても…善く生きるための秘訣から正しく生きることの本質までを、過激にして軽快、深遠にして明解に語る。
混沌の現在を生き抜くための最良の指針。】

【目次】

第1部 善く生きるとはどういうことか(動物にとって善く生きるとはどういうことか;善く生きることと欲望;規範はフィクションである;昔の人は不幸だったか ほか)
第2部 正しく生きるとはどういうことか(正しくないとはどういうことか;平等というフィクション;あなたの正義と他人の正義;人はどこまで自由なのか ほか)

 人の行為を倫理や道徳や特定の思想で非難するのは無意味だ。いや有害ですらあるというのが本書の論旨である。

 万人が納得し得る絶対的真理(正義)など無い以上、社会的正義というものは制度としての法律以外に無い。

 仏法者としては真理はあるとの立場だが、不信心な人々にとってはただ価値観の違いということにしかならないだろう。

 著者はまず、人は欲望をもつ生き物であるとしたうえで、「人が生きるということは欲望を解放することだ」と言う。

 仏法でも法華経において「衆生所遊楽」といい、この世は人々が遊び楽しむ所であると欲望を否定してはいない。

 ところで全ての人が欲望を100%解放出来る世の中などあるだろうか。それは在りえない。そこに欲望の調停としての道徳(世法)と法律(国法)が存在する理由がある。

 法律は社会を機能させていくうえで必然のものだから、これに反した者は法によって処罰されれば良いのであって、道徳的に非難される言われはない(意味もない)。

 例えば殺人が何故悪いのかと言えば、他者の恣意性の権利(人が自分の欲望を解放する自由)を侵害するからであり、特別高尚な思想的言葉を持ち出すまでもない。

 恣意性の権利というのがキーワードである。 人世に於ける善悪を論じる場合、このキーワードを基準にする以外にないのではないか。

 封建制とは違い民主主義社会には、人は原則的に平等との公準(虚構)があり、この原則平等の世の中に於ける正義とは「個々人の間での規範の対称性が守られることである」ということになる。

 しかしこれも問題がないではない。そもそも人は本来平等なのかという問題である。美人と不美人、健常者と身障者、金持ちと貧乏人など、生まれながらに与えられた条件が違っているのが人間であろう。

 だから著者は「本来的に不平等である個々人を原則平等とみなせば、そこには何らかの矛盾がふきでてくるだろう。」とし、「制度の適用における原則平等は結果不平等を帰結する」という。そしてこの矛盾を調停するとしたらどう調停するのかというのが、実践としての正義論になる。

 『善く生きること(個人の問題)がかけがいのないあなたを追求することならば、正しく生きる(自分と他人の欲望を調停すること)とはかけがえのあるあなたを承認することなのである』というのが本書の要約であろう。

 腑に落ちない人生論が巷に溢れているが、この著者の論旨は簡潔であり、乾いた感性がスッキリした読後感をあたえてくれる。

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