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2007年5月 3日 (木)

正しく生きるとはどういうことか

正しく生きるとはどういうことか

4104231010

池田 清彦:著

新潮社,1998

☆☆☆

 

 【法律はもちろんのこと、道徳や倫理だって人間のつくった決まりです。
それならば、いっそのこと自分なりの規範をつくってしまっても…善く生きるための秘訣から正しく生きることの本質までを、過激にして軽快、深遠にして明解に語る。
混沌の現在を生き抜くための最良の指針。】

【目次】

第1部 善く生きるとはどういうことか(動物にとって善く生きるとはどういうことか;善く生きることと欲望;規範はフィクションである;昔の人は不幸だったか ほか)
第2部 正しく生きるとはどういうことか(正しくないとはどういうことか;平等というフィクション;あなたの正義と他人の正義;人はどこまで自由なのか ほか)

 人の行為を倫理や道徳や特定の思想で非難するのは無意味だ。いや有害ですらあるというのが本書の論旨である。

 万人が納得し得る絶対的真理(正義)など無い以上、社会的正義というものは制度としての法律以外に無い。

 仏法者としては真理はあるとの立場だが、不信心な人々にとってはただ価値観の違いということにしかならないだろう。

 著者はまず、人は欲望をもつ生き物であるとしたうえで、「人が生きるということは欲望を解放することだ」と言う。

 仏法でも法華経において「衆生所遊楽」といい、この世は人々が遊び楽しむ所であると欲望を否定してはいない。

 ところで全ての人が欲望を100%解放出来る世の中などあるだろうか。それは在りえない。そこに欲望の調停としての道徳(世法)と法律(国法)が存在する理由がある。

 法律は社会を機能させていくうえで必然のものだから、これに反した者は法によって処罰されれば良いのであって、道徳的に非難される言われはない(意味もない)。

 例えば殺人が何故悪いのかと言えば、他者の恣意性の権利(人が自分の欲望を解放する自由)を侵害するからであり、特別高尚な思想的言葉を持ち出すまでもない。

 恣意性の権利というのがキーワードである。 人世に於ける善悪を論じる場合、このキーワードを基準にする以外にないのではないか。

 封建制とは違い民主主義社会には、人は原則的に平等との公準(虚構)があり、この原則平等の世の中に於ける正義とは「個々人の間での規範の対称性が守られることである」ということになる。

 しかしこれも問題がないではない。そもそも人は本来平等なのかという問題である。美人と不美人、健常者と身障者、金持ちと貧乏人など、生まれながらに与えられた条件が違っているのが人間であろう。

 だから著者は「本来的に不平等である個々人を原則平等とみなせば、そこには何らかの矛盾がふきでてくるだろう。」とし、「制度の適用における原則平等は結果不平等を帰結する」という。そしてこの矛盾を調停するとしたらどう調停するのかというのが、実践としての正義論になる。

 『善く生きること(個人の問題)がかけがいのないあなたを追求することならば、正しく生きる(自分と他人の欲望を調停すること)とはかけがえのあるあなたを承認することなのである』というのが本書の要約であろう。

 腑に落ちない人生論が巷に溢れているが、この著者の論旨は簡潔であり、乾いた感性がスッキリした読後感をあたえてくれる。

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