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2008年5月13日 (火)

学会は中国を信用しすぎじゃないか?

5月9日の聖教新聞の紙面を見て卒倒しそうになった。

一面に先生と胡錦濤が握手をしてる写真がでかでかと。

胡主席「中日が共に平和的発展を」

名誉会長「調和世界を青年の交流で」

とあり、北京オリンピックの大成功を念願ときましたか。

まあ、前から思ってたことではあるけど、先生も学会という組織も、心底相手の裏を読むということをしないのだな。

胡錦濤の言う平和的発展というのは、日本に日中関係を難しくするような事をするなよってことでしょう。

でも中国のやることに対して口挿むんじゃねえと。

それは中国の対外的な政策を見てれば、分かることだと思うんですがね。

異様なまでの軍事拡大路線といい、チベットや台湾の問題といい、ガス田開発の問題といい、この連中の口からよく平和的発展などという言葉が出るもんだ。

といっても、普通はこれを真に受けるような国家は無いし、個人としても、複眼的に物事を見るなら中国という国は、警戒してつきあわねばならんと思うはずだけど。

しかしどうも日本はそうじゃないみたいだし、先生にいたっては、出会った人は皆友人という感じだ。

 一度築いた関係は自分からは壊さない、裏切らないというのは個人としては凄い事だと思う。

思うに、池田先生は平和ということに関して、究極的には他人を頼みとしていないのだろう。

それは、師匠戸田城聖先生の曰く、「一人立て。二人は立たん。三人はあとから続くであろう。」という言葉を、忠実に実行されてきた先生ならではの、人生観、行動哲学であるのだと思う。

そして小説「人間革命」に、その思想が象徴的に表れている。

「一人の人間における偉大な人間革命は、一国の宿命の転換を可能にし、やがて人類の宿命の転換をも可能にする。」

このことからすると、肝心なのは自分の意志であり、信念であるということです

たしかに偉大な変革というものは、一人から始まるのだとは思う。そしてその必死の一人が、他人に影響を与え、後に続くのだろう。

そう考えると敵視するだけでは、何も始まらないというのはあります。逆に相手も意地になるかもしれない。

だから民間外交では、友好、協調でお互いの理解を深めていくことは必要だと思う。

長いスパンで考えた時、民間次元においてもお互いに無理解なままでは、政治的な対立がそのまま国を挙げての対立にまで発展しかねない。

問題は、友好と言っても本当にお互いに歩み寄っているのか?という事。

一方的にこちらが歩み寄るだけでは、ただ与しやすい奴だと思わせるだけだろう。

中国は日本に歩み寄っていると見るのは、左翼だけじゃないか?

このような状況下で、ただ和やかな会談で終わっていいのだろうか。

いくら民間外交とはいえ、現在進行で行われているチベットの問題等に一切触れずに、ひたすら讃えるだけでいいのか。

胡錦濤へ先生は漢詩を送られた。

「國富邦和日日新  

 家家充裕感恩深 

 主施仁政行王道 

 席不暇暖為人民           

 古来文化漢土求 

 月氏睿智福共籌 

 錦繍中華迎舊友 

 濤聲友好萬代流」
  

 「国は富み、邦と和し 日々、新たなり 

 家々は充裕にして感恩深し仁政を施して王道を行う                                      

 席の暖まる暇なきは人民の為なり

 古来文化は漢土に求め

 月氏の叡智に福を共にはかりたり

 錦繍なる中華の旧友を迎えて

 濤声の友好は万代へ流る」 

国は富みというが、その影で取り残されている人民のうめき声は聞こえてないのだろうか。

家々は充裕にて感恩ふかし。しかし内陸部は貧困が酷く、役人や政治の腐敗は酷いものだ。

仁政を施して王道を行うというのは、何をもってそう見るのか。中共のやってることのどこが仁政なのだろうか。

チベットの人々への武力鎮圧等を見ても、中国は覇道の国にしか見えない。

先生の心中にあるものはなんだろう。

何故これほどまでに、相手を讃えることが出来るのだろうか。

人間というのはもっと複合的な存在ではないのか。一面だけで判断できるほど単純ではないと思う。

人間には誉められて襟を正す者もいれば、かえって傲慢にも増長する者もいる。

中国という国の国柄を考えた場合、これほどの讃美はもはや覇権の肯定にしかなっていないのじゃないか?

リアリズムを欠いた評価をしてしまっているな、と思う。

民間次元でも国家次元でも、中国にたいして(アメリカにたいしてもだが)希望的観測が強すぎではないか。

モーゲンソー曰く、
『政治的リアリズムは、人間性の多元的な概念に基礎づけられている。現実の人間は、「経済人」、「政治人」、「道徳人」、「宗教人」等々からなる複合体である。
「政治人」以外の何ものでもない人がもしいるとすれば、その人は野獣である。なぜなら、彼は道義的自制を全く欠いているからである。
単に「道徳人」である人は愚者である。というのは、彼は完全に打算を欠いているからである。
「宗教人」にすぎない人がいるとすれば、その人は聖者である。なぜなら、彼は世俗的欲望を全く欠いているからである。』

人間性の多元的な概念といえば、仏法の生命論は縁に触れて境涯が変わると洞察しているから、権力の座にいる者が道徳人としてのみ行動するわけはないってことは、分かるはず。

そうならば、そういう立場にいる人間の言葉を、そのままに裏を取らずに信じるというのは、人が好すぎる。

それと、政治的次元からだけでなく、信心の次元から言っても中国と単純に友好などと言ってられる状態じゃないはずだが。

聖教新聞では、中国の民間団体や大学等から池田先生への顕彰が続き、さらには池田思想の研究などが行われていると報じ、それをとってまるで中国がこちらに歩み寄ってきてるかのように言ってるが、下衆の勘ぐりで言わせてもらうと、中国側の意図はあくまでも池田先生の持っている影響力をどう国益の追求に使えるかって事だと思う。

先生の下には数百万の弟子がいる。しかも先生の設立された政党が政権中枢にいるということを、中国が利用しようとしない訳は無いよ。

先生を評価する→学会員に好印象→学会員が親中派に→対中政策に反映→中国の国益に繋がる

べつに難しく考える必要もなく単純に分かる話だ。

このように考えられない学会員の方がいるとしたら、その人は道徳人以外のなにものでもない人だと思うし、政治を政治としての次元から見れない人だと思う。

そもそもこの中国は創価学会を受け入れていないという現実をどう認識してるのか。

この信心を布教することをいまだに禁じている国を、何故ここまで信じ、賞賛できるのか分からない。

信教の自由が事実上ない国ですよ。

ロシアやキューバでも布教が認められているのに、そんなに池田先生に理解を示してるならなんで未だにこの信心を排除しているのか。

中国共産党一党支配にとって、権力構造と中華思想に真っ向から張りあいかねない思想の布教を認める訳無いんだよね。

東 晋平さんなどは、中国は遠くない将来創価学会を受け入れるだろうと、物凄い楽観的なことを言ってますけど、僕は全然そうは思いませんね。

てか、日本共産党を批判していて、その親玉みたいな国に媚びてどうするって思うけど。

日蓮仏法は謗法厳戒のはずだけど、この信心を受け付けない国家権力というのは超謗法ではないのか。

チベット弾圧の首謀者つかまえて、仁政を施しって、どの視点から見ればそうなるのか。

むしろ日蓮大聖人は、例えば弘法大師空海や良寛のように生き仏のように崇められている権威に対しても、食法餓鬼と言って徹底的に批判されている。宗祖はそういう激しい方であった。

仏法否定の中共に媚びるのは、学会のとるべき態度なのか。

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