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2009年12月10日 (木)

なぜ死にたがるのか

ネットを徘徊していると、実に死にたい願望の人が多いことに気づく。

なぜ、死にたいなどと思うのか。

死にたくなくても人は死ぬのに。

しかも驚くことに、学会員にもかなり鬱になっている人がいるようだ。

なぜ、御本尊がありながら。

祈りがありながら。

御本尊とはいったいなんだろうか。

日蓮大聖人は、我々衆生がいつの時代に生まれてきても、仏に会えるようにという慈悲で御本尊をおしたためになられたのではないだろうか。

毎日、仏と対面できるという幸せ。

このこと自体が奇跡なのだと思っている。

毎日、お仏壇の扉を開けるたびに奇跡を起こしているのだ。

こう書くと、なにやら大変な活動家と思われるかもしれないが、まったく逆である。

もう一年以上も、なんの活動もしていない。

聖教新聞すら購読していない。

していることはただ、勤行、唱題、そして御書の拝読のみ。

正統な学会員からしたら、ただの退転者にひとしいであろう。

自分の信心に対する態度を正当化するつもりもない。

しかし、弁解するつもりもない。

今はただ、組織的に信仰することから距離をおきたいのだ。

自分としては、御本尊と自分の間に、何者をも介在させたくないというのが正直なところなのだ。

師恩に報いなければならないとは、思っている。

師匠がいてくれたから、その師とともに戦ってくれた人たちがいたから、こうして自分が御本尊を持つことができた。

だが、師恩に“報いたい”と思うようでなければ、それは偽りの感情にちがいないとも思う。

自分は、とにかく誰かを幸せにすることができたら、それが師恩に報いることになるのだと考えることにした。

難しい。

信心は、難しく考えればとことん難しい。

簡単に考えようとすると、まるで信心を軽く捉えているように思われる。

このあたりが、組織的な信仰の厄介なところだなと思う。

信心しているのに満たされていない人は、おそらく組織に満たされていないのだろう。

本当にこれでいいのか?と、半信半疑で活動している人がほとんどなのだと思う。

まともな神経の人なら、それが当然だと思うよ(笑)

ただ、組織に対する不満から、信心が破られていく人がいたとしたら、その人は組織に多くを望みすぎていると思う。

組織に依存する心があるのではないだろうか。

オレにはそれはない。

組織に対する期待はまったくない。

したがって、裏切られたような気分になることもない。

いったい、どっちがまともな信心なんだろう。

鬱になるほど、活動に仕事にとがんばること。

あれをしなければ功徳がでないだの、これをしなければ功徳はないだの、組織的見解を、一切雑音と排してわが道を行くことと。

それによって心が充たされているのなら、オレ流も捨てたもんではないのかもしれないと思っている。

罰と功徳については、一切を御本尊にゆだねる。

自分が間違っているのなら、自ずと答えはでる。

それについて、他者と御本尊に対し、決して逆恨みはしない。

そう腹が据わっているのなら、犀の角のごとくただ独り歩めばよいのではないのか。

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