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2010年9月

2010年9月29日 (水)

中華人糞暴力団は日本を併合する

中国は日本を併合する 中国は日本を併合する

著者:平松 茂雄
販売元:講談社インターナショナル
Amazon.co.jpで詳細を確認する

読後感:×××

恐らくは、支那は2013年までに動くのではないか。なぜなら、米国幕府のオバマ・ミンス政権の任期がそれまでにきれるからである。

米国ミンスは左巻きな傾向の強い政党であることを支那は見抜いているし、武力衝突は躊躇うはずだと読んでいるに違いない。

今回の尖閣諸島問題は、当事国が領土を守るための行動を主体的にとるのが筋であって、日本が本気を見せない以上は、米国幕府が、わざわざ前面に出ることはないであろう。

「検察の判断です。」

これが政府の逃げ口上なのだから笑うほかない。プロ市民上がりのアホどもには、これが限界であろう。

 

笑ってはいけない。これはまったく他人事ではないのだ。この賎極なる筋金入りの阿呆は、戦後民主主義が生んだ“ニッポンジン”の極北である。

本書の著者、平松氏は長年支那を研究し分析した結果、日本併合の意志が明確であることを見て取ったようである。

支那とはいかなる“連中”であるか。最早、“国家”という括りでみることは適切ではないのではないかと思うのである。

はっきり認識しなければならないのは、支那人には遵法精神は無いということであり、国際法も社会常識も、その時々の“覇権”を持つ“連中”によって変わるという価値観のもとで生きているということである。

平松氏によると、支那の領土拡張政策は「失地回復主義」であるという。これは「清朝」最盛期の領土を取り戻すという国家戦略である。

しかし、それどころではない、もっと恐るべき戦略を持っている。

「戦略的辺疆」という領土意識である。これは何を意味するか。

「地理的国境」に対する考え方で、「地理的国境」が国際法で認められた境界、すなわち領土・領海・領空であるのに対して、「戦略的辺疆」はその国の国力に応じて伸縮するもので、力がなければ「地理的境界」を維持することができなくなるが、反対に力があれば「地理的境界」を越えて勢力範囲を拡大することができるという考えである。(p110~111,第3章 中国の「他国侵略」の歴史,)

といい、それは、

中国共産党が生み出した概念というよりも、数千年にわたって東アジアを支配してきた中華思想にその淵源が求められるべきものである。それゆえに、たとえ中国が民主化をしても、巷間私たち日本国民がイメージする自由主義、民主主義的な国家に中国は変化することはないといっていい。

社会主義と自由民主主義のいずれの体制をとろうとも、中国の性格を決定づけるのは中華思想であり、それは常に失地回復への情熱を持つ、茫漠たる「辺疆」の拡大を伴うものとなろう。(p72~73,第2章 東シナ海資源開発に隠された中国の真意,)

ちなみに、領土獲得よりは領海の獲得の方が易しいと考えているらしい。東シナ海はすでに「片がついた」という認識であるようだ。

支那は日本の海域の調査をすでに終えているというが、ほとんど日本人はその動きを知らなかったはずである。

まずはわが国の外務省中国課が、わが国の太平洋海域における中国の調査活動を、国連海洋法条約に規定されている「科学調査」と解釈し、かつ「許可」を求めてきているから、合法的であるとし、したがって公表する必要はないとの立場に立っていたからである。また、海上保安庁は「事前通報」に反するものでない限り、外務省の立場に従っていたようである。(p158,第4章 日本は海からの侵略に耐えられるか,)

お受験競争を勝ち抜いただけのお坊ちゃんたちに、国益を守る気概を求めても無駄ってものかもしれん。ようするに、面倒な仕事を増やしたくないんだろ。もっとも、官僚を使いこなせないどころか、手なずけられてしまう政治家に一番問題があるのは間違いない。

国防を語ることのできない人間を、国会議員にさせてしまう国民の民度が今の事態を招いたといっていい。

支那は太平洋に展開するために、台湾は絶対に手放さないし、南西諸島も掌握することは国家戦略として、はっきり持っているのである。

友愛の海などと言った阿呆がいるが、日本人の云う「友愛」と支那人の「友愛」の意味は違うってことが分からないと、このような結果を招いてしまうのである。

いま、尖閣を死守するという国家意志を明確に占めさなければ、日本は国土を守る意志が弱いという誤った政治声明を発信することになる。ロシア無頼の怪しげな動きも、この誤った政治声明を受けとっての事である気がしてならない。

2010年9月26日 (日)

「日本核武装」“相討ちの恐怖”のみが真の抑止力となりうる

日本核武装―廃絶への道を求めて日本核武装 廃絶への道を求めて ,中島 尚志:著,はまの出版,2003

読後感:☆

四天王寺国際仏教大学教授、元判事・弁護士の方が著した核武装による平和論である。

核武装を説くことがなんで平和論になるんだ?!、と思われる方は、ご自分のご主人様をどこの国にするか考えたらよい。

支那畜の首輪を受け入れるか、露助の首輪を受け入れるか、アメ公の首輪を受け入れるか。

9・24はこの国が独立国であることを放棄した日であると思っている。もう、この事態はアホ左翼政権を望んだ連中だけの問題ではではない。信じられない話だが、本気で友愛が通じる相手だと思っていたようである。

そしてこれは、九条信仰という知的障害が必然的に招いた結果である。

 自分も引けば相手も引くという、自分中心の平和主義、相手国の民度や歴史を考慮していない、自分の嫌がることは相手も嫌がり自分の望むことは相手も望んでいる。だろうと思っている。

たんなる自己満足としかいいようがない。自分も人間、相手も“同じ人間”。ならば対話すれば理解し合えるはずだ、と思っている。

阿呆か?

千年に一人の偉大なる指導者さまが7千人にも及ぶ対話の歴史を築いたそうだが、それと同じことを政治家に望んでいるとしたら頭が足りないとしかいいようがない。

もともと思想的な親和性の強い相手と何人対話しようと、それは互いの思想の素晴らしさを確認しあっているだけの、仲良しトークにすぎない。

政治的対話とは、即お互いの国家の死活の利益に係わってくる問題を扱うのである。したがって、すでにこの段階から戦いは始まっているのだ。文学や哲学談義をしていればいいというものではない。

考え方の違いがあっても、この問題については平行線ですねで終わる、終われる民間外交とは次元が違うのである。

政治における対話の物別れは、ならば自分の要求を相手に呑ませる力を、どれだけ持っているかで決着のつく段階にまで進む。

何ゆえにこれほど単純な現実に対して盲目となったのか。戦後の日本人は、世界でなにが起きているのかまったく見えていなかったのか。

一度冷静になって人類の歴史を見たらよい。

いったい、絶対平和主義を標榜される方たちは、人類が争いを対話によって解決しようとしてこなかったとでも思っているのか?

平和主義者は旗幟を鮮明にすべきである。自分たちの主張する平和とはいかなるものなのかを。

(ⅰ)血を流さずに決着がつくならば、いかなる結果をも受け入れるということであるのか。

(ⅱ)あくまでも日本国という独立国として立つ。他国を侵略するつもりもないが、他国の侵略を受けることも拒否するという、主権国家としての立場を明確にして万国とつきあっていく平和のことであるのか。

(ⅰ)を選択するならば結論は早い。相手の要求を全面的に呑むことである。そうすれば相手は何も失うことなく、望むものを得るであろう。

日本人がそれによって何を得るかは、どこの国家が飼い主となってくれるかによるであろう。

(ⅱ)を選択するならば、そのために必要な条件とはなんなのかを現在の国際情勢に鑑み、且つ、これまでの人類の歴史から人間とはいかなる生物であるかという、その“業”と“本性”を冷徹な知性でもって分析し、その必要条件を充たす努力をせねばならないはずである。

本書はそのための考えるきっかけとはなるだろう。ただ、情緒に訴える話が少々多いかな、と思う。本の帯にある、

“相討ちの恐怖のみが真の抑止力となりうる!!

このひと言に尽きている。

世界の常識は、己の要求はどこまで許されるのかを試していくことによって、生存をはかるのである。

お互いに譲り合うことによって平穏を保つ、日本人と同じ民度を他に求めても無駄である。

この著者は、心情的には武力は持ちたくないに違いない。そんなものがなくても秩序が保たれる、友愛の世を夢想したいに違いないのである。

このような詩的な表現をしている。

私たちは、おそらくブッダが直接の弟子に語った「ただ一人歩め」(スッタ・ニパータ)という声を聴くことができる位層(ミッション・ステート)に、移らなければならないでしょう。キリストが直接の使徒に語った「行け」(マタイ伝)という声を、決して後戻りできないような位層において聴かなければならないでしょう。言い換えれば、すべての人たちが潜在的には持っているはずの「聖なるものへの衝動」に、孤独になったときに初めて味わうことのできる感動の世界に、それぞれが一度は立ち戻ることです。孤独な自分の耳を大地に静かに当てて見ることです。(P94,第2部 現代日本の「自由・平等」の姿,)

孤独な自分の耳を大地に静かに当てて見る。その時なにが見えるか。なにが聴こえるか。

ブッダの慟哭が聴こえないか。

自分の祖国と同胞を滅ぼされた、守れなかった、その挫折、その悲しみ。

万物が平等に仏性を持ち、それを開く中にこそ真の幸福があることを説いてきた。にもかかわらず、征服の意志を明確に打ち出してきた者を言葉によって止めることは、ついにできなかったのだ。

この慟哭が聴こえないのか。

2010年9月25日 (土)

なぜ釈放?怒る漁民「中国漁船、どさっと来る」しかし、カルト凶団政治部代表は釈放を評価(爆)

予想どうりの展開だ。事実上、この国は終わったと認識している。

戦後60年に亘る平和憲法教の集大成ともいうべきアホ政権が、日本の主権を悉く放棄する方向で動いている。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100924-OYT1T01202.htm

なぜ釈放?怒る漁民「中国漁船、どさっと来る」 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) via kwout

いったい、平和主義者というのはなんなのだろうか。とりわけ、日本の平和主義者は非常なる希少種といえよう。 この連中は相手の立場になって考えろと云う。それが平和につながると考えているらしい。

今回の不逞支那畜の釈放も、相手の立場になって考えた結果であろうか。おめでたい連中である。

はっきりいって、平和主義者は自意識過剰である。唯一の被爆国と云い続け、悲劇の主人公にでもなったつもりで自分を慰めているのであろう。

だが、他国は日本人の経験に特別な感情など持たない。むしろ、悲劇であるからこそ、そのような目に遭わないために、自らも核による武装が必要であると考えるのである。

それが政治というものであろう。政治とは権力闘争であるからだ。

日本の腐れ左翼政権は高度な政治的決断をしたつもりであろう。

日本が妥協すれば支那畜も妥協すると思ったのだとしたら、やはり相手の姿が見えていないとしかいいようがない。結局自分の価値基準を相手に投影しているだけだ。

これに対して、他党はどう反応したか。自民党だのみんなの党だの、批判しているつもりかもしれんが所詮“ふり”にすぎまい。自民党なんぞ、北京汚輪を支援したやつばかりじゃねえか。

まあ、それでも一応、格好だけでも批判はしたわけだが、それすらしない素敵な連中もいるから、驚きだ。

 

日中友好の金の橋(爆w)ってやつかwww

残念ながら日中友好のカネの橋になったようだな。日本がどのような声明をだそうが、最早無駄。

拘束しておきながら、それを釈放するってことは、不当に拘束しているという支那畜どもの言い分を認めたということになるのだ。日本がいくら“処分保留”などという、あいまいな態度で事を納めようとしても無駄だ。

拘束した理由が正当であるなら、引いてはならなかった。引くということは、相手の主張を呑んだという声明をだしたに等しい。自分本位の平和主義外交の限界を示したということ。

譲り合いが成立するのは、これ以上押すと国益を損なうという判断があるからだ。つまり、日本という国はどれだけ押しても、国益を損なう結果にはならないと思わせたことになる。

恐らくは、支那で拘束された(間違いなく理由なき拘束であろう)邦人4名は、釈放されないのではないか。釈放するということは、不当に拘束したことを認めたに等しい。または、政治的判断というやつで釈放したとしても、それは日本との取引に応じたという印象を与えるだろう。

そうなると、支那は取引に応じる(軍事的に弱い国家に対しても)国家であるという声明を発したも同然であろう。

これは最悪の結果もありうる。

そこまではないとは思いたいが、オレは支那畜のことを知れば知るほど次なる手を打ってくることを想像しないわけにはいかないのだ。

支那畜はあの4名の邦人を使って、恫喝してくるのではないかという気がしている。

つまり、本来なら国内法で処分されるべきものを、高度な政治判断と称して釈放するかわりに、日本政府に例えば尖閣諸島の領有権(の主張)を永久放棄するならば、という条件をつけてくるかもしれない。万国公法であろうが道理であろうが、この中華人糞暴力団には通じないことは、やつら自身が示している。

もしそんな事態にまでなったら、最悪である。無人島一つ手放せば人命を救えるという、主権国家としての在り様を問われる最悪の選択を迫られる。

いくらなんでもそこまではありえまいと、思いたい。世界も黙ってはいまいと、思いたい。

しかし、知れば知るほど支那畜どもというのは、それすらもやりかねないと思えてくるのだ。とにかく奴らには遵法精神がないのである。万国公法などものともしない連中に、どう対処するのかこの国は。

いずれにしても、戦後日本人が感染した反戦病のひとつの結果となることは間違いないだろう。

2010年9月22日 (水)

アメリカンショック

 アメリカン・ショック

アメリカン・ショック 』,岡崎 久彦・古森 義久;共著,ビジネス社,2002
販売元:TSUTAYA online
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読後感:☆

これはまだ、ブッシュ政権当時の米国の話であるが、米国を語る上で気をつけるべき点を、元駐米公使、岡崎氏がこう指摘している。

「アメリカ」という主語でアメリカを語る者はインチキだ―岡崎

「アメリカは」という主語を使ってアメリカを論じる者がいますが、そういう連中は全部インチキ野朗ですよ。アメリカなるものはないのですから。アメリカには、ホワイトハウスがあって、国務省があって、国防総省があって、議会があって、マスコミがあって、世論があってしかもそれぞれの中で、意見がそれぞれ違って、お互いにいろいろな議論を戦わせて、チェック・アンド・バランスの下で政策が出てくるわけです。

それなのに「アメリカはこうに違いない」という者がいたら、「アメリカの誰」と聞いてみればすぐわかります。たしかにアメリカには「憲法九条を改正しないでいい」という人はリベラルの中に若干いるでしょう。しかし、その人の名前をいえればいいほうです。(p214~215,第3章 アメリカは日本に期待する,)

たとえば、最近、そのような話としてよく出てくるのが「アメリカは、本当は台湾を守る気はない」というものですが、やはり「そのアメリカとは誰だ」と聞き返すと、だいたい答えが返ってこないですよ。もし「スタンレー・ロスだ」というなら、それはそれでいい線をいっている。しかし、そのときには「スタンレー・ロスならそうかもしれない。では、ウォルフォウィッツはどうだ」と聞いたら、もう相手は何もいえないでしょう。(p215,同)

これは米国に限らず、どの国にも云えることだろう。国家は、その内部にさまざまな勢力を有しているものであり、どの勢力が優位に立つかで政治が変わる。

ただし、世界標準から云えばどこの国であれ、国防意識は右翼・左翼を問わず、祖国のために戦うのは当たり前という“当たり前”の感覚を持っている。

この当たり前の感覚を持たないのは、世界広しといえど日本の腐臭漂う薄らバカ腐れ左翼の蛆虫どもくらいであろう。

口を開けば国境のない世界だの、地球民族主義だの、阿呆か。この手の連中は、国家なき世界がどのようなものになるか、想像できているのか。

いったい、世界市民とはなんぞや?。世界市民として生きるってのは、どういうことをいうのだ。

何者にも縛られることのない、完全なる自由な個人とでも定義するのかね。だとしら、秩序はどうやって保つのか。秩序がなくても生きられるというのか。

つまり支那人化しろと?(失笑)

ボーダレス時代でも国家という単位は崩れない―古森

パレスチナ民族の問題も主権国家の重要性を証明しています。パレスチナ民族は自分たち独自の独立国家を望んでいます。国際社会でもパレスチナ国家の創設に賛成というのが大多数です。日本でも日ごろ「国家権力に反対」などという反国家ふうの主張を叫ぶ左翼の知識人たちも、ことパレスチナ問題となると、みな主権国家の設立を求めるのだから、ふしぎですね。(p263,Epilogue  滅びる国家と生き残る国家,)

結局のところ、自称平和主義者を気取ってるプロ市民どもは、

(1)資本主義を憎悪しているだけ。

(2)その資本主義の権化のような米国が気に入らない。

(3)米国はイスラエルを支援している。 

(4)イスラエルはパレスチナを攻撃している。

(5)イスラエル=米国によるパレスチナ虐め。

したがって、パレスチナは正しい。

これだけだろ、これ以上の上等な思想と道理に則して、パレスチナ擁護をしているようにはみえん。

それはともかく、本書でも触れられているがミンス党政権の米国というのは、親中路線が露骨になるのだな。クリントンの時にも、日本に寄らずに支那を訪問するというまねをしてくれた。

いま、支那が強気にでているのも、米国がミンス政権下にあるためかもしれない。

日本の国益を考える上で、最大の懸念は支那というゴロツキをどう扱うかであろう。前途多難である。支那人ってのは敵ながら天晴れな外交手腕を見せる。

世界中に、支那のカネで汚染された政治家や官僚どもがいるに違いない。

もちろん、軍事力という力の裏付けがあるからこそ、汚い手をつかっていても、批判に動じることなく超然としていられるのだろうが、稼いだカネを有効に使えない日本の政治は、本当に情けない話である。

チャイナ・スクールの存在は世界共通の問題―岡崎

私は、どの国でもチャイナ・スクール(親中派の外務官僚)というのは、今後世界中が中国を相手にしなければいけないときに最大の問題になってくると思うのです。(p134,第2章 アジアの問題国家対策,)として、

日本においては、 “重要なのはチャイナ・スクールの人が中国政策の政策決定過程に入らないようにすることです。”(p134,同)

“チャイナ・スクールの人は本人のためにもアジア局長にしなければいい。そうすると、中国に対する政策決定過程には入らない。アジア局長にはまったくチャイナ・スクールと関係がない人を就ければいいのです。(p134~135,同)

と、述べている。

これができるだろうか。いまとなっては、人事までも支那の手中に握られている気がしてならないのだが。

本書は、ブッシュ倅の一期目の時にでたものであるが、知日派のいる保守政権下の米国と、どれだけ同盟を強化できるかに日本の命運がかかっていると指摘している。ミンス党政権下の米国では、親中派が主流になるから覚悟しろってこった。

2010年9月20日 (月)

アメリカの戦争の仕方

Images

『アメリカの戦争の仕方』,ハリー・G・サマーズJr,講談社,2002

読後感:☆

世界最強の軍事力を持つ、超大国の戦争哲学。これを読むと、不可避の戦争ではあったとはいえ、日本はよくこの国と戦ったものだなと思う。

一番強烈に印象に残ったのは、二つの戦争を同時に戦う戦略と戦力を持つ重要性を説いていることである。

自衛の為の戦いについて語ることすら憚られる、脳内お花畑などっかの国とは、えらい違いである。

第8章 アメリカ軍事政策の“十戒”より,

(ⅰ)“三位一体”の戦争を忘れるな

 三位一体の原理は、憲法のなかで謳われている。まず前文には、こう書かれている。

 「常備軍だけでなく、『われわれ合衆国国民』は、共同防衛に備える義務がある。」

 次いで、第一条第八項は議会に対して陸軍および海軍を創設し、その統制および支配の規則を制定し、戦争を委任する権限を与えている。そして、修正第二条は次のように宣言し ている。

 「十分に統制された市民軍は、自由国家の安全にとって必要である。武器を保持する国民の権利を侵害してはならない」(p227,)

ひとたび有事が起れば、国民が一致団結して戦闘態勢に入る、まぎれもないこの国の国力の秘密はこれか。

(ⅱ)核による戦争抑止力を強めよ

 核戦争の抑止が重要なことは、いくら強調しても強調しすぎることはない(p231,)としたうえで、

 アメリカ本土に弾道ミサイル攻撃に対する防御システムをつくることは、アメリカ の将来の軍事政策の最優先事項である。弾道弾迎撃ミサイルがなければ、アメリカは核の脅迫に対して脆い状態のままであり、海外の同盟国を安心させることはできない。(p236,)という。

 核の脅迫、武力による脅迫。日本はこの脅迫にどう対処する気でいるんだ。考えることすら、避けているのか。

(ⅲ)海外の核防壁を維持せよ

 アメリカは同盟国の利益のためより自国の利益のために、同盟国を自国と同じように、核の脅威から守らなければならない。本国を核の脅迫から守るだけでは不十分なのである。(p237,)

(ⅳ)通常兵器こそがカギである

 通常兵力は戦争を抑止するための第一の手段であり、もし抑止に失敗したときは、戦場で戦い、そして勝利する手段なのである。同時に、同盟国にアメリカの支援を確信させ、信頼させる手段である。(p240,)

そして、米国が海外に軍を展開している理由。

 軍隊というものは、必要がないときは海外に動員できるが、危機が発生して実際に軍事力を必要とするときは、動員できないものなのである。なぜなら動員によって、ますます事態が悪化する恐れがあるからだ。

 したがって、アメリカが国益にとって重要な地域への影響力を維持するには、前もって軍隊を駐留しておく必要がある。(p242~243,)

(ⅴ)敵をおびえさせよ

 英国海軍のヒル・ノートン元帥はこう述べた。

 「戦争を抑止するために肝心なことは、潜在的な侵略者の心の中に、攻撃によって得られる利益より失う損失の方が大きい、という恐怖の念を起させることである」(p244,)

平和憲法では平和をつくることはできない。

憲法9条では、敵を失笑させることはできても、恐怖させることはできない。

(ⅵ)自国の力を錯覚するな

 しかし、“恐怖の均衡”は、現実の裏づけがなければならない。アメリカが冒す可能性のある最大の危険は、敵国に脅威を与えて相手を押さえ込むのではなく、かえって相手を奮い立たせるかもしれない、ということだ。(p246,)

実際のところ、米国は現時点で二つの戦争を戦って勝つ見込みはあるのか。そう考えるのは力の過信であると、冷静に分析し、

 一つの地域紛争を戦って勝利し、もう一方の地域紛争は、第一の紛争が片付くまで膠着状態にしておくのである。

 アメリカは、こうした事実から目をそむけずに直視しないかぎり、あまりに戦線を広げすぎて、「敗北―敗北」戦略に陥ってしまうかもしれないのである。(p248,)と述べている。

 決して、精神論に陥らないところがこの国の恐ろしさであろう。気になるのは、支那が自国の力をどうのように分析しているかだ。

(ⅶ)技術の罠に陥るな

 「軍事力信仰」は宗教と同じ、信仰の一つである。(p248,)

 技術の進歩によって、生身の軍人の重要性が低くなることはないという。高度な科学技術に裏打ちされた兵器を持つに至っても、最後の決着をつけるのは、血を流す覚悟をもった人間であることに変わりなく、軍隊の規模を縮小する危険を指摘している。

穿った見方をすれば、いろいろ指摘できる点はあるが、国家の戦いを勝つために人間という戦力が決定的な役割を果すとういうのは、事実であろう。

(ⅷ)軍隊は平和維持活動地域の周辺を固めよ

 将来的には、平和維持活動を主たる任務とすべきであるという主張に対し、

 それは欺瞞的かつ最も危険なあやまりである。軍隊の戦闘がもたらす成果をおとしめるばかりか、軍事に対する政治の支配を損なう可能性がある(p253,)というのである。アホの左翼が聞いたら卒倒しそうな話しだな。

文民の戦略家から支配権を取り戻さなければ、軍が本来の機能を果せないというのである。

日本にいたっては、文民どころか、プロ市民上がりのアホどもなんだが。

(ⅸ)軍事政策の方向性を設定せよ

 「安全保障政策を明確にするためには、アメリカの世界とのつき合い方に関する基本的な質問に答えなければならない。

 ①国際問題におけるアメリカの役割は何であるべきか。②アメリカの国際活動の目的は何であるべきか。③これらの目的を実現するために、アメリカはいかなる手段を用いるべきか」(p260,)

「アメリカ」を「日本」に置き換えた場合、どういう結論がでるのか興味深い。おそらくは、政府ではこのようなことが問題にすらなったことはないのではないか。

(ⅹ)何よりも、戦闘拡大能力の優位性を維持せよ

 もしアメリカが、冷戦後の世界の安定に成功しようとするなら、アメリカに対して公然と歯向かえば必ずはね返ってくることを敵国に確信させなければならない。そのためには、戦闘拡大能力の優位性を維持する必要がある。

 戦闘拡大能力の優位性とは、敵が対応できないところまで戦闘を拡大する能力を持っているということである。この能力は、武器、装備、人力などの目に見える物理的要素と、リーダーシップ、戦場における勇気、政治的意志など、目に見えない士気的な要素を組み合わせたものである。(p263~264,)

日本にとって、まず脅威なのは、政府、議員含め知識人や一般人にいたるまでが、国防を当たり前に語るという国柄である。むしろ、これを語れないような輩が政治家として支持されることは、ない。

国を守ることは国民として当然であり、守るには軍事力が重要になるということもまた自明であることが共通認識としてあるのであって、如何にして国を守るかという議論に於いて、軍備が必要か否かなどという、欠伸のでるところから始めなくてよいのである。

反米保守の気持ちも分かるのだが、このような驚異的な国家との同盟を離れて、へたに敵性国家と認識されると厄介だ。軍事的に一人立ちするとなったら、カネと技術のある国だけに、軍事的競争相手とみなされると考えておかねばならないだろう。

軍事費の適性支出はGNP比3%ともいわれているが、カネの問題以上に、このような戦略的且つ強大な国に、敵性国家とみなされる覚悟を持てるのかということ。

日本が二方面での戦争に対応できる可能性は、おそらくないだろう。そもそも、戦うための資源の確保が難しい。さらに、日本の側に立ってくれるような友好国を望めるか、ということも重要な要素だろう。

白人国家は、日本の側には立たないと思ってまちがいない。ならば有色人種の国家が日本の見方になってくれるか。これも心許ない。

だいたい、アジアにしても、国力がそれほどでもない国しかない。それなりの国力にある国どうしの同盟でなければ、意味がないであろう。

支那・朝鮮は筋金入りの反日であるから、ここは問題外だ。この二国と係わると碌なことがない。

これらのことを考えても、当面は米国との同盟下にあるほうが、都合がいいのではないだろうか。

なにも、米国を心底信頼する必要も、好きになる必要もない。政権が変わればどう転ぶかもわからないのだから。

とりあえずは、いまは米国幕府の時代だと割りきって、面従腹背で行くのが利口かと思うのである。

2010年9月17日 (金)

アブナイ中国

アブナイ中国―なんと、のんきな日本の為政者たちよ! アブナイ中国―なんと、のんきな日本の為政者たちよ!

著者:花房 孝典
販売元:三五館,1998
Amazon.co.jpで詳細を確認する

読後感:×

尖閣諸島の領有権を喚き始めた中共であるが、こいつらにはそもそも万国公法的意味での、領土という観念を持っていないようだ。

ところで、

【中国からの1万人団体旅行が中止 尖閣問題が影響】

このようなどうでもいい情報をことさらとりあげるTV・新聞が目立つが、いったいなにを云いたいんだ。日本政府に、支那を刺激しないように穏便に対処しろとでも云うのかね。

どっちが最初に喧嘩売ってんだってはなしだ。

 前原氏はこの日午前の会見で「中国の大型旅行案件が中止されることは残念」とした上で、「大事なことは国益や日本の主権を基本に置きながら、対応していくことだ」と指摘。日中関係が再び安定した場合は、改めて訪日旅行を検討するのではないかと期待感を示した。

主権の基本は、まず領土意識だろ。てめえらの縄張りがどっからどこまでっていう、明確な主張をしない国家などあなどられるだけだ。結果的にそれは、国益を損なうことになる。

支那人の団体旅行が来なくなるからなんだってんだ?、くだらねえよ。どうせなら不法入国の不逞支那人も取り締まれって、アホの中共に云ってやれ。

そも、支那とはいかなる国ぞ。この認識なくして日中友好などと危なっかしいことを云うものではない。日本の物を買ってくれる有り難い市場としてのみ見ているのなら、足元すくわれるぞ。

 中華思想を奉持する国家には、「国家意識」が希薄、あるいは存在しないことである。

 主権国家が国家意識を持たないということは、一見矛盾するようだが、中華思想の論理からすれば、天が下、すべてが己の領土である以上、あえて国家意識を持つ必要はないのである。

 ところが、本来、すべてが中国であるべきはずの地球には、目には見えないが、国境という線が縦横に引かれ、さまざまな国家が勝手に主権を主張し、乱立している。これが、中華思想の目をもってみれば、野蛮人に領土を不法に占拠されていると映る。となれば、それらの状況は、当然「正しい姿」に回復されなければならない。

 そのためには断固たる決意と、強大な軍事力が必要になる。

 中華人民共和国という国家は、あくまでも便宜上の仮の姿であり、その目指すところは、すべての人類が、中国を「中華」として崇め、その皇帝たる中国共産党総書記の前にひれ伏す「大中華帝国」である。(p115 ~116,第四章 中華思想という虚構,)

支那人には国家意識がないといって、それをあたかも、世界市民的傾向を本来持っているのが支那人であると思っている人たちがいる。いま手元にないため、正確に引くことができないが、「二一世紀への対話」に、そのような微笑ましい話がでていた。

人類がみな支那人であるべきだと思っているのであるなら、国家意識も国境という観念も持たないのは当然であろう。微笑ましい平和主義者たちが考えているような、抽象的な“人間”だの“市民”だのという概念と、文明人=支那人というのとはまったく違うのだ。

ある意味でいえば、支那人は白人どもと似ているところがあるかもしれない。連中は国際社会に自分を合わせようとするのではなく、国際社会を自分に合わせようとするのである。日本人とはGLOBAL STANDARDの捉え方が逆である。

それにしても、最近の中共の目にあまる挑発はどう受けとめるべきか。国内問題から目をそらすという、よく言われる理由であるのか。

理由はどうあれ、支那の国内問題は支那で処理すべきことであり、日本は主権国家としての当然の対応をすべきことであるにはかわりない。この場合に戦後民主主義的、「大人の態度」をとるのは、阿呆としか映らない。

“平和国家中国は覇権を求めない”という言葉は詭弁である。

 これは、そもそも「天下の覇権」は、中国にのみ存在するものであり、他の国が覇権を求めることはできない。また、中国にのみ許された覇権を他に求める必要はないという意味に受け取るべきである。(P127,第五章 覇権を求めないという虚構,)

これ以外に、異常な軍拡の意味を読みとることはできない。抽象的思考の中に逃げ込んで、「平和国家中国」を想像するのは自由であるが、覇道を往く国である可能性を否定できない以上、政治はそれに対応しなければならない。

この状況はしかし、日米ともに“ミンス党@左翼”となったときから、起り得る事態であった。米国が力の行使を躊躇わないブッシュ政権下では、起こらなかったであろう。つまり、今なら勝てると中共は睨んでいるのかもしれない。

先に日本に手を出させ、それに対する報復として“正当に”武力行使に持ち込もうというのであろうか。

ならば日本はどうする。このときこそ日米同盟の真価が問われるのではないか?

日本の領海に入り、海上保安庁の船に突っ込んだ。日本政府は同盟国として、米国にもこの件を非難させたらどうなんだ。ここで何も反応しなければ、日本国民は日米同盟の意義を疑うぞ、と皮肉のひとつでも云ってやれないのかね。

とにかく酷い政治だ。

2010年9月16日 (木)

中国人の面の皮

中国人の面の皮―彼らに脈々と流れる「厚黒」の思想

中国人の面の皮―彼らに脈々と流れる「厚黒」の思想

著者:若宮 清
販売元:祥伝社
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×××

謀略と殺戮を、厭くことなく繰り返してきた歴史を持つ、支那。そこに生きる人々には、それ相応の人格が形成されていく。かの土地が与えた特性ともいうべきもの、それを「厚黒」と呼ぶ。

不思議でならなかった。なぜ、これほど過酷で残虐な歴史を持つ土地で、10何億ものヒトが繁殖できるのかと。むしろ過酷な環境ほど、人間の生命力を強くするのかもしれない。

“日中友好”は可能か。それは「友好」という言葉が意味するものによるだろう。少なくとも、日本人が思い描くような「友好」にはなるまい。

 中国の政治・経済を知るには、中国人を知らなくてはなりません。中国を語る評論家や研究者たちは、中国人のことをどれほど知っているというのでしょうか。中国人―とくに天下を取った人たち(国家のリーダー)、またはビジネスを含めて、世にいう「勝ち組」という人たちには、共通の思考があります。彼らは、いちように「面の皮」を厚く保ち、「腹黒く」生きることで、成功を掴み、頂点を極めたのでした。

 これが中国人の信じる唯一の原理原則―「厚黒」の思想です。中国という地にあって、「厚黒」を持たない人は、敗残者となります。(p6,はじめに,)

簡単に云ってしまえば、他人を“信じない”ってこと。信じて損をしたなら、それは信じた方が悪い。こういうわけだ。

これはかの大陸が、その過酷さゆえに、おのずから体得させた民族の知恵なのだろう。これなくしては生きられないというのだ。4千年という年月がかれらに刷り込んだ「知恵」である、どう考えても日本人的発想でつきあえる相手ではない。

いったい、かの大陸はどのようなヒトを作り上げたのか。どうやら徹底した“個人”とでもいうべき存在らしい。この“個人”は、決してお上を信用しないし、国によって我が身が守られるとも本気で思ってはいない。だから、世がどう変わろうが生き抜いていくために、家族との結束と富みを重視する。

中国人は、自分を守ってくれる国家や組織があるなどとは考えない。自分の生命や財産を最優先する個人主義だけが成り立つ。とはいえ、あれほど生存競争の厳しい国で、全く自分ひとりだけで生きていくことはできなかった。せめて家族や血族・同族で一致団結して生き抜いていこうと考える。これが、「自家人」の概念である。

こうして中国には、ひとつの中庭に面して、何家族もの家が並び、それを高い壁が囲んで防御する共同住宅が出現した。福建省に現存する「土楼」は、最大のもので、六〇戸以上、四〇〇人以上の一族郎党が同居している。さらに四、五個の土楼が組み合わさってできた集落もある。激しい戦乱や馬賊・夜盗から財産を守るために、編み出された知恵だ。(p68~69,二章 「拝金主義」が生んだ厚黒の思想,)

斯様に結束の強い家族であっても、一族の面子を潰すような奴は容赦なく排除する。どこまでも乾いている連中である。

そもそも支那人を人種という概念で見るべきでなく、「漢字」を使って交流する人々とでもいうべき、文化的概念として見るべきと指摘する人もいるようだ。

それはさておき、日本人が肝に銘じておかねばならないのは、日本的“誠実”が支那人に通じるかである。

 ここで、中国人の特質ともいうべき―非を認めず謝罪しない、身勝手、自己正当化、拝金主義、家族主義などが、すべてその「徹底した個人主義」に由来するものであることを確認しておきたい。最後は、自分ひとりになっても生き残るという強い信念だ。中国人は、体内に蓄積してきた「厚黒」の思想に基づいて、行動する。決して感情に左右されないのである。(p59~60,同)

まず手玉に取られるのがオチだな。

中国人は、現在の自分にとって、さしたる利がないと思えば、扱いを一変させる。彼らは、ことあるごとに「井戸を掘った人は決して忘れない」と言ってくるが、これも真っ赤なウソ。「井戸」の前に、「いまも水がコンコンと涌き続ける限り」と書き加えておいていただきたい。(p61~62,同,)

つまり彼らの精神構造から云うとこういうことだろう。

人が他人の為になにかをするのは、自分にとっても利があるからにほかならない。ならば、自分が世話になることによって、その人も得していることがあるはずである。よって、そのことをいつまでも感謝している必要はない。

乾いてるねえ。ある意味感心するよ。

「井戸を掘った人」を“讃えつつ”、政治にはなんら反映されていないというオチでござる(爆W)

はっきり云って、文化大恩の国からなにかを学ぶとしたら、叩いても叩いても屈しない生命力と、その元になっているであろう、面の皮の厚さではないか?

最近思うんだけど、国境のない“世界”、すなわち国のない世界なるものができたとしたら、そこで生き残れるのは支那人的に行動できる者だけなのじゃないだろうか。

だとしたらオレは死んでいいわ。まっぴらごめんだよ、そんな世界。

2010年9月14日 (火)

99.9%は仮説

99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書) 99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)

著者:竹内 薫
販売元:光文社
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  ☆

「科学的」という言葉の受けとめ方が変わる本である。

「科学的」と聞けば信じるに足ると思ってしまいがちだが、科学とは所詮仮説なんですと。

驚くことに、飛行機が飛ぶ原理は、明確には分かってはいないのだという。まえに航空業界の本を見たときに、飛行機は揚力によって飛ぶのですとどうどうと説明されていたが、結局これも仮説なんだと。

地球温暖化にしたって、もしかしたら温暖化のせいで二酸化炭素が増えているのかもしれないとも云えるのだとか

地震の起きる原理も、プレートが動いて云々、云うのも仮説なんだと。

自明のことのように云われていることが、なんとまあ仮説の域をでないのだという。飛行機なんかは、ほんとにそんなことで大丈夫なのかよって思ってしまうが、それでも支障はないんだから人間もいい加減なもんだなぁ。

結局、100%こうだと言い切れるものがないと踏み出せないといっていたら、なにごともできませんよということでしょう。

それからいったら、宗教なんぞはなおさら検証不可能な分野だろうなと思う。仮説もなにもあったもんじゃないだろ。信じた人が信じるに値すると思ってるなら、ああそうですかですむ話だ。それを啓蒙しなけりゃいかんと、妙な使命感を持ってしまうからややこしいことになってくる。

ややこしいといえば、「科学的社会主義」という糞寝ぼけたこと云って革命を夢見ている腐れ左翼どもね。

社会主義って、「主義」だろ所詮。なにが科学的なんだ、いったい。歴史の法則だのなんだのと、まあ。科学を自称したいなら、せめて仮説ですけどって謙虚さくらいは持てよ。

2010年9月11日 (土)

反日毛唐到着で連日ピリピリ 「ザ・コーヴ」の太地町

また来たらしいぞ、腐れ毛唐どもが。

>和歌山県太地町で伝統的なクジラとイルカ漁が解禁になった今月1日以降、反捕鯨利権を持つ欧米の反日活動家らが連日、姿を見せ、ピリピリしたムードの中で漁が続いている。

欧米からの反日活動家らのほとんどは、ドキュンメンタリティー映画「ザ・コーヴ」に触発されたようだ。

触発されちゃったDQNな反日テロリストどもが、またぞろアホな論理と手前勝手な正義を振りかざしてきやがった。

なにを言うかと思ったら、  

>米国ロサンゼルスの会社社長、リチャード・ロンドンさん(59)は「米国人も奴隷制を文化だと思っていた時代があった。イルカ漁も悪い文化だからやめてほしい

だとよw

は?

おたくら毛唐どもはさぁ、知能の高い白人は知能の弱い有色人種を指導してやらねばならないと思ってるだろ。

なにやら正義を振りかざしているらしいが、結局はだ、知能の弱いものが知能の高いものに服従するのは自然なことだって思想だろ?

その論理でインディオも黒人もアジア人も蹂躙してきたんだろうが?

だから知能の高いイルカや鯨を食べるという行為は野蛮だという論理か?

自分たち知能の高い白人様が認めた高貴な生き物を、有色人種ごときが食すなど許せないってわけだな?

実に分かりやすいではないか、毛唐諸君www

で、諸君らはいったいいかなる連中に資金提供されているのかね?

>漁の様子を盗撮。映像はインターネットで流し、実態を世界に訴えるという。選別作業を見ていた米国人男性(65)も「食べるのも、博物館で飼うのもかわいそうだ」と語った。

食べるのも、博物館で飼うのもかわいそうじゃない生き物の名前を一つ一つ挙げてみろよ!偽善者の毛唐wwww

そんなにイルカや鯨が可愛いなら、漁民が漁をしなくても暮らしていけるように漁民を養ってあげたらどうだ。善人面してえならイルカも漁民も生きていけるようにしてやれやw

2010年9月 9日 (木)

言葉を玩んで国を喪う

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『言葉を玩んで国を喪う』

井尻 千男:著,新潮社,1995

☆☆

チャンネル桜にでている、あの人である。

書かれていることが胃の腑にストンと落ちる本である。

道理の面から云っても、感情の面から云っても、心から「そのとおりだ」と思えたこと多し。

腐れ左翼、似非平和主義者の書くものには、心から納得のいくものは、まずない。どうしても、理屈だけで押し切ろうとしている感じしかしないのだ。

人間が理屈のみで生きているのなら、その発想も有効かもしれないと思うものも、ないではない。しかし、どう考えても人間は理屈だけで生きていない。理性のみではなく、むしろ情念が行動を規制している生物だと思うのである。

そうすると、ほとんどの平和主義者の主張する“対話”という教義を信奉する気にはなれないのだ。

保守主義者の言説は素直な感覚に根ざしているからだろうか、抽象的な議論で煙に巻かれたように感じることはない。そこが好い。 

平成7年の出版であるが、情況はあまり変わっていない。政治に関しては、この時よりも悪くなっていると思う。なにしろ、現政権は絶望的なまでに売国心旺盛な輩の集まりである。

腐れ左翼どもは、国力を削ぐような発言や政策を打ち出しながら、片方では福祉の充実で国民を守るだのと詭弁を弄する。そのくせ、国会議員が選挙の時にまともに国防を語らないのである。国民の生活を守るというなら、国防こそなによりも先に語らねばならないことではないのか。

しかし、この左翼どもにそれは望めまい。自らの信仰する社会主義の名のもとに、国柄を顧みることもなく、一からこの国を作り変えても構わないとおそらく思っているだろう。

人間が時間の連続を生きているかぎり、過去から完全に自由になれないように、あるいは文章を一行記したときから、次の一行がおのずと限定されるように、ネクタイ一本を選ぶ好みという美意識も、その人間の生きてきた過去と、いま着ている背広の色や形に限定されているのである。それに古来、人間にタイプ論があり、美意識に系譜論があるように、ものごとは拡散しているように見えながら収斂しているものである。(p28,言葉を玩ぶマーケッター)

歴史の必然という教義を信仰する左翼どもは、共産主義が破綻したことを認めない。あれは共産主義ではないという。理屈通りにいかなかったことを、革命が徹底していなかったためと考える。

人間はこうあるべきだ、という夢想をするのは構わない。しかし、まずその通りの振る舞いはしないものだ。

理性によって、常に最善の選択をする、なにものからも中立を保てる“人間”という存在を、抽象的思考の中で妄想することはできるだろう。しかし、そのような抽象的な“人間”を主人公にしていくら“平和”を描いてみても、必ず現実の人間の持つ“情念”の力によって、しっぺ返しをくらうであろう。

支那、朝鮮という、厄介な隣国を抱えていながら、憲法9条さえ死守していればよいという思考停止した政治風土。

9条を死守しなければ戦争になるとでもいうのか。米軍が駐留しているからこそ、手が出せないのだという、単純な力の論理が分からんのか。

米軍が居ることによって、かえって日本が攻撃対象になるというのが左翼である。いったい、いつから米軍は日本に駐留していると思ってるんだ。

最早支那なくして、日本経済は立ち行かない、支那の機嫌を損ねるようなことはすべきではないという。だが、日本が一方的に支那から経済的恩恵を受けているのか。

だいたい、なにか云ったら外交問題に発展するかのようにマスコミは煽るが、外交問題を抱えていない国など、どっかにあるのか。お互いに利害の絡むことだ、外交問題になるのがあたりまえではないか。

経済の国際化、相互依存関係が深まれば、それによって引き起こされる経済問題が直ちに政治的課題になるのは当然のことといわねばならない。経済自体がつねに政治を呼び寄せているとさえいえる。逆にいえば経済自体が完結した社会システムになったことなど一度としてなかったと考えたほうがよいのである。

にもかかわらず、経済学的思惟にどっぷりつかった日本人は、政治問題化した経済であっても、それが経済問題であるかぎり経済学で解決できると思っているようだ。換言すれば政治的思惟、政治的説得というものが、この世に不可欠のものだということを忘れてしまったようである。(p33,経済的思惟に限界あり)

2010年9月 6日 (月)

中台統一

王曙光/中台統一 「中台統一」―21世紀東アジアのパワーバランス

読後感:××

中共、台湾、双方に太いパイプを持っているという著者が、台湾海峡と東アジア情勢を分析し、中台関係がどのように処理されるかの見通しを語っている。

中華思想の申し子とでも云いたくなる御仁である。

平たく言うと、台湾は紛れもなく中国なのだ、それは自明の事であって台湾人民がいくら反発したところで、「大中国」という“統一大業”を妨げる事は不可能である。

と、こういう主張である。

同時に、親台湾な日本や米国に対しての警告でもある。

はっきり云っている。もし、この「統一大業」に介入してくるなら、武力衝突は避けられないと。

そうなった場合、実際に戦場となるのはどこなのか。台湾だ。良くて台湾海峡だと、そこをよく考えよと、云うわけだ。

小さな親切、大きなお世話だよ、って云いたいらしい。

本当に台湾人民の為を思っているなら、“大中国”という理想を妨げてはならないのだそうだ。

しかし、あくまでも「統一大業」は“平和”に行われるべきである、という。

長期的に、利巧に攻めよってわけである。

台湾住民の多くは決して、中国そのものが嫌いなために「即時統一」を拒んでいるのではなく、中国人であることを認めないために「現状維持」を主張しているのでもない。

台湾住民は中国側が主張する「一国二制度」による統一方式に対する根強い不安と懸念を抱えているため、中国からの統一交渉要求に慎重な態度を示しているのである。(p244,台湾問題の平和的解決を目指すために)

と、自分たちが嫌われているわけではないのだと云い切っている。

いずれ日本に対しても同じ論調でくることだろう。

中共は、武力行使を躊躇わないと威嚇しつつも一応、“住民の意思を尊重”するという態度を見せている。

連中の戦略は長期的である。住民の意思を変えられる自信があるのだ。

住民の多数が、大陸からの外省人になればよいということ。

つまり、人口爆弾である。

「中国人の交渉術」という本には、毛沢東がキッシンジャーとの会見において、このように云ったと書かれている。

毛「中国には米国を痛めつける策略があります。千万人の女性を米国に送り、人口を過剰にして、国力をそぐことです」

ようは、そこの住民の多数派が“中国人”になってしまえば全面対決するまでもない、ということだ。

自国では民主主義など採用するつもりはなくても、他国においては、この制度の不利な点を最大限利用する戦略であろう。

 

中共は米国の弱みを冷静に分析している。この市場の持つ魅力には抗えないことを。

最後に、中台問題を見る心得をご教示下さった。

中台間で現在繰り返されている攻防戦は、それぞれが交渉を自分に有利な方向へ持っていくための作戦であり、双方の世論や住民からの支持を最大限に引き出すために必要な策略なのである。

そしてそれぞれの動きが作戦であり、策略である以上、第三者は派手な演出と頻繁な駆け引きを、中台関係悪化の象徴として短絡的に受け止めてはならない。さまざまな表層現象を通して、双方の戦略的意図を突き止めることこそ、中台問題に関心を持つ者として、とるべき姿勢なのであろう。(p256,同)

2010年9月 5日 (日)

北朝鮮 血と嘘と断末魔

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【中古】afb【古本】北朝鮮血と嘘と断末魔/朴甲東 【エントリーでポイント10倍!9/7 9:59まで】

読後感: ×

著者、朴甲東氏は戦前、早稲田大学政治経済学部で学び、戦後は南朝鮮に戻り共産党の機関紙の記者なんぞをやっていたそうである。

朝鮮戦争当時は南朝鮮労働党地下党の最高責任者だったようだ。

その後は北朝鮮で文化宣伝省欧州部長なる地位にあったそうだが、金日成将軍様による「第一次粛清」の対象とされてしまい、3年間幽閉されていたがソ連・無頼のフルシチョフによる、スターリン批判の影響もあって死なずにすんだらしい。

そして脱北。昭和32年より、日本で亡命生活を送っているのだという。

そんな経歴を持つ著者が、内側から見た北朝鮮の実態を明かし、そして日本の対北朝鮮外交の稚拙さを批判しているのである。

平たく云えば、北朝鮮にはgive and takeという感覚は通用しないんだとさ。

だろうな。

そんな謗法の国に供養をしているのが他でもない、国民が拉致されている我が国である。

日本は金正日の恫喝外交に屈して、九五年にコメ五十万トン、九七年もコメ七万トンを北朝鮮に“献納”した。経済援助すれば北朝鮮は態度を軟化させ、国交交渉がやりやすくなるのではという期待感からのコメの提供であったろうが、北の受け止め方は日本帝国主義からの献納でしかなく、結果的には援助米は一般人民の口には入らず、ミサイル部隊の支援米になってしまった。(p22,Ⅰ章 ミサイル発射は金正日政権、断末魔の悪あがき)

たとえばだ、ガキが駄々をこねる度に物を買って与えたらその子が将来どうなるかって話で、まともな親なら限度ってものを教えるはずだ。

北朝鮮は育ちの悪いガキだ。ガキは躾けなければならん。

にもかかわらず、逆に支援してるときた。アホか?

地上の楽園になんで“援助”が必要なんだ?

アホなのか左翼よ?

これでは、日本が金正日とグルになって、圧政に苦しむ北朝鮮人民たちを鞭打っているに等しい。瀕死の状態にある金正日政権の存続を助ける結果になっているからだ。日本政府は、いつまで経済援助を続けるつもりなのか。毎年毎年コメを贈り続けても、北朝鮮はそう簡単には豊にはならない。未来永劫、コメを献納しようというのか。これから先、ずっと北の脅しに屈しようというのか。日本人拉致問題を永久にあやふやにしようというのか。経済援助しないと戦争になると主張する人の心理が、私にはわからない。(p44,Ⅱ章 北の情報はこう読めば真実が見える)

私にも“腐臭漂う腐れ左翼の不逞鮮人”の精神構造はわからない。

わかりたくもねえ(´,_ゝ`)プッ

とにかく、知れば知るほど救いようのない連中だわ。だめだコリァですな。

ミサイルが日本に向いてるってのに、そのミサイル自体も日本の製品を使って製造されてるという話だし。

この著者もその通り指摘している。

朝鮮総連の北への送金も相変わらずだろう。どう考えても国外で北を支援する勢力がいなけりゃ、あの体制が持つはずはない。

いろいろと参考になることは書いてあるが、一つムカつくのは、対北朝鮮に関しては「日本のはたさねばならない役目は、米国よりさらに大きい」とかほざいていることだ。

いかにも朝鮮人としか云いようのない連中だわ。ここまでくると、もう、右も左も関係ねえな。

話にならんぜよw

それを云いたけりゃ、まず「日韓併合」を評価することだな。もちろん、あの当時の世界情勢を鑑みたうえでだ。

この連中の精神構造なら、当時の朝鮮をあのままほっといたら、間違いなく後々こう云ってるだろう。

「日本はアジアで唯一近代化に成功していたのに、欧米列強と戦わずに黙ってアジアを蹂躙させた!」と。

つまり、日韓併合はやってもやらなくても“謝罪”は要求してるだろうってことだな。

これがこの連中の限界でしょう。

無理。東アジア共同体w 

日本化できるなら別だが、まず無理だろ。

北への送金は、北の指令で朝鮮総連によって各県に額がわりふられる。しかし、景気の悪い昨今は、そう簡単に課せられた金額は供出できない。そこで在日朝鮮人の事業者が「朝銀」から金を借りる名目で手形を振り出す。といっても、個人にいったん金が渡るのではなく、「朝銀」が直接、朝鮮総連を経て送金してしまうのである。最初から回収の見込みがたっていない、北への送金のための融資だ。当然、「朝銀」の資金は底をつく。商工主たちは金が返せないから、これが不良債権となって破綻してしまったのが大阪朝銀なのだ。

今、「朝銀」には資金がないので、次々と朝鮮総連系の不動産が担保に入れられている。教育機関も例外ではなく、朝鮮総連系の資産の多くが担保にとられているといっても過言ではない。返済のあてのない借金をしてまで送金が続けられているわけで、融資した金融機関では不良債権化しているものばかりである。これらの金融機関が破綻するごとに、公的資金が投入されるとしたら・・・・・・これでは日本人は、北朝鮮の金正日政権のために納税しているようなものである。(p201~203,Ⅶ章 日米共同正犯か、対北朝鮮政策の過ち)

と、まともに“かの国”を見ている人は、たとえ朝鮮人同胞であっても、北朝鮮を利するようなまねは止めよと云うのだ。

これがあたりめえの感覚だろうよ。

朝鮮高校への授業料無償化だ?

ふざけてるのか、左翼の蛆虫どもよ?

2010年9月 3日 (金)

天使と悪魔

天使と悪魔(上)天使と悪魔(下)

 ☆

ダヴィンチ・コード」が面白かったんで、これも読んでみた。

話の展開は「ダヴィンチ・コード」と変わらないな。

この作品でもヒロインの父親が死に、その死体に「イルミナティ」であることを示す焼印が押されていて、例によって暗号解読しながらの犯人追跡が始まるわけである。

ダン・ブラウンは、主人公のラングドンに暗号解読の為に語らせることによって、宗教やら歴史やら美術に対する知識を披露していく手法をとる。そのおかげで、薀蓄が物語の邪魔にならずにすんでいる。

下手な作家の手にかかると、物語の流れを中断してまで薀蓄を詰め込んでくるからかなわない。その点、この著者は巧いと思う。

前作では「イエス」にまつわる秘密を解読していった。今回のはヴァチカンイルミナティセルンなどの組織が出て来てはいるが、それらの組織の秘密よりも気になったのが、「反物質」という“物”の存在である。

ここでダン・ブラウンの説明していることが、どの程度の信憑性なのか分からないが、

「反物質は未来のエネルギー源です。威力は核燃料の千倍。エネルギー効率は百パーセント。副産物はありません。放射線を生み出さず、汚染とは縁がない。ほんの数グラムで、大都市に一週間ぶんの動力を供給できます。」

と、ヒロインに語らせている。

ただ、wikiの記載によれば《反物質を生成するのに必要なエネルギーは、反物質を燃料として消費するときに得られるエネルギーよりも大きいため、結局は損をする。》のだとか。

そう簡単には、薔薇色の世の中にはならないよってことですか。

ところで、イルミナティってよく聞く組織だけど、これ読んでも結局はよく分からん連中だな。

それよりもヴァチカンの方が興味深いね。なんだかんだいっても、歴史の持つ重厚さを感じる。これは「善い」「悪い」ではなく、存在感という意味で。

あと、これはどうでもいいんだけど、「ダヴィンチ」のときのヒロインとは一線を越えなかったのに、このヒロイン、“ヴィットリア”とは越えちゃったね。

イエスの子孫かもしれないソフィーと違って、彼女は“ただの”科学者だからなのか。

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