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2010年12月 8日 (水)

共同体を保守再生せよ 

  

共同体を保守再生せよ (発言者双書)

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著者:井尻 千男
販売元:秀明出版会
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読後感:☆☆

オウム事件、阪神淡路大震災、薬害エイズ問題、日本版ビッグバン、学級崩壊、ガイドライン関連法…市場原理と共同体原理が大激突する今、日本の歴史と共同体をいかに保守再生し、日本固有の文化を守るかを説いた書。

実にこの人の本は言葉の宝庫である。

この国に生まれた宿命を想い、育まれたことに感謝し、善い面も悪い面も(全肯定でもなければ全否定でもなく)受けとめ、次代に引き継いでいく。

不都合をきたしたら解体し御破算にするという、先人達の歩みを軽視した態度を取るのではなく、あくまで漸進的にゆく。それが保守であると。

著者はあとがきで、本書の主題が日本の歴史と共同体をいかに保守再生するかにあり、とした上でこう述べている。

しかしながらこの主題は元来、直接話法では語りにくいものだ。固定的なあるものを保守することではく、喩えてみれば時間とともに展開する音楽や物語の主題を確認し、はなはだしい逸脱を修正する行為に似ているからだ。(P324)

歴史という終わりのない長編物語のほんの一ページを生き生きと書き継いでみたい、生きてみたいというのが私の立場だ。主題の変容、展開、転調を存分に楽しみながら物語の続編を引き受けるというのが保守の立場のはずである。そして私の想い描く「共同体」というイメージは、最も広義でいえば歴史物語の続編を引き受ける意志を共有している人々の集合体というほどのものであり、狭義においては家族や地域社会の物語を継承する人たちのことだ。前衛派の実験的コンミューンのことではない。(p325)

過去(先人たち)・現在(我々)・未来(子供たち)へと、自分たちの物語を書き継いでいくということ。それは他の物語を生きる人々をも、本来認める立場である。それが破壊的な展開を見せない限りは。

 歴史に宿命の相があれば、その相を最も発揚することのできる筋道があるだろうと考える。長編物語を書き継ぐようなもので、より美しい完成を夢見ることはあっても、振り出しに戻って新しい短編小説を書こうなどとは思わない。(中略)

私がこの国に生まれたのは、私の選択ではなく運命だ。瑞穂の国に生まれるか砂漠の国に生まれるかは選択肢ではない。たまたまの偶然にすぎない。その運命を引き受けることからすべてが始まる。すべての事柄を包含した歴史という物語が始まる。そのとてつもなく長く、終わりのない歴史物語に比べれば人間の命、私の命などその一コマにすぎない。そういう運命愛が保守的精神の前提にある。(p197~198,①保守主義者の本意,平成九年)

 

国家があるから戦争になるなどという、へ~わしゅぎしゃの戯言なんぞはまともに付き合う必要もあるまい。あまりにも子供じみていて話にならん。

防衛の為の戦いであっても戦争は絶対悪なのかだの、相手が攻めてきた場合なら軍事力の行使は認められるのかだの、自明の事すぎて議論にもならんような当たり前の事でさえ、議論になるような“脳内お花畑”の住人ばかりの国が、今の日本だ。

先人たちを否定し、現在の平和状態が何によって保たれているかも直視しようとしない、“戦は嫌じゃ”の一点張りで平和が保たれるとでも思っているとしたら、知的障害としか思えん。

所詮、今の日本は平和の消費者にすぎないってことだろう。平和の建設者ではありえない。

戦後の日本は、唯一の被爆国の特権をかざしながら、同時にアメリカの核の傘にどっぷりつかってきた。他国の核に守られながら反核を説きつづけてきたというわけだ。この自己欺瞞の構造を自覚しないで、平和と反核の使徒を演じているのが日本の大方の政治家である。国内で平和を説いているかぎり、説く人・聞く人ともども自己欺瞞に陥っているからその欺瞞に気づかない。だが、他国から見ればその矛盾は明々白々のはずだ。(p96,⑨核実験の黙示録,平成七年)

まさに“平和を語ることと、平和を保守することの距離は無限に近い。”(p96,同)ということだ。

地球民族主義だ、人類皆兄弟だと云ったところで、思考停止の産物であるに変わりない。人間は兄弟喧嘩もすれば親子であっても殺し合うものだ。所詮は底の浅い、只管“理想主義”で塗り固めた人間観によるものでしかない。

縁によって境涯は変わるのだ。他国が弱気を脅す畜生の境涯に陥らないようにする為にも、付け入る隙を与えてはならない。強くなければならない。

強くなればなったで、勝他の念を引き起こさずにはおかないかもしれないが、弱ければ支配欲を芽生えさせるのは分かりきっている。

国家が戦争の根源であるかのごとく云う輩は、自分が枕を高くして眠れるのはなぜかを、意識的に考えないようにしているのに違いない。

自分らのへ~わ思想にどれほど自信があるか知らんが、人間性というものを侮ってはならない。戦う意志を示せば競争になろう。だが、戦う意志を示さねば、遠慮なく支配するか、望むものをぶん捕るだろう。 そうならないことをただ期待するというのでは、もはや政治ではあるまい。

政治といえば歴史認識にしてもだ。

他国が批難してくるには、なんらかの正当な理由があるはずだと生真面目に捉える日本人。下手にでればでるほど、そこが外交カードになってしまうということすら考えない。

ある時代のある戦争をどう解釈するかは思想上の自由に属することだが、そのこととは別に英霊はちゃんと祭らねばならないというのが私の歴史観であり人生観である。この二つの次元の異なることを一緒くたにしたところに、戦後の日本の民族的致命傷がある。

私がそのことを「民族的致命傷」というのは、英霊をはずかしめた瞬間から、その民族は戦えなくなるからだ。(p144,⑤戦争の観念をこそ語れ,平成八年)

他国の歴史物語の中に飲み込まれ、日本人としての自己を蒸発させていく道を選ぶのか。

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