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2011年1月30日 (日)

ザ・ロード華麗なるアリバイ

原作、A・クリスティー「ホロー荘の殺人」。

ある上院議員夫妻の大邸宅に集まった男女9人。その中の1人の男が殺される。

全員に愛という名の動機があった。犯人は・・・・。

犯行現場のあの状況を見ればあんたでしょ?、って素直に思っちゃうのだが、あ~だこうだと云いつつ捜査が始まってしまう。

頭の中が???でいっぱいになりながら、あれじゃないんかい?と深読みしつつ終盤へ。

結局そっちだったんかい!、と呆気にとられて終わってしまった。

映画の出来よりも、おフランス女の禁煙ファッシズムに完全と抗う、煙草の吸いっぷりが印象的であった。

文明を全て失った世界。父子は希望を求め、旅を続ける。

この映画は人間の業について考えさせられる。人間が築き上げたものが破壊され、絶望という名の共通の敵がいながらも、その状況ですら争う人間とはいったいなんなのか。

母は絶望に勝てなかった。父子は希望の火を燈して“南”へ向かった。彼らが本当に求めていたのは、太陽の暖かさというより人の心の温かさであっただろうと思った。

父子は旅を続ける。自分と息子の“ため”の弾丸を二発銃に込めて。

旅の途上で眼にする悲惨。

食糧として、人間が人間を家畜化する。

女、子供という未来への希望も、餓えた人間にはただの“肉”にすぎなかった。

もし、文明の崩壊した世界に放り出されたとき、自分はどっち側の人間になるだろうか。

希望という南へ向かって、悲惨に打ち克つ道を行くか。

今の苦痛を終わらせる方を選ぶか。

人間を喰ってでも“生きる”か―。

これを見て、問わずにはいられない。人間性とはなんなのかと。

自分以外に誰もいないかもしれないそんな世界で、もし出合った人が憎むべき人であったらどうするだろうか。

たとえば、ムスリムとユダヤがその状況で出合ったらどうなるのだろうか。

まさかその状況でも争うのだろうか。自分以外の、唯一の一人であるかもしれないとしても。

こういうことを問うたとしても、意味はないのだろう。所詮は縁によって左右されるのが人間としかいいようがない。完全に理性のみで生きられるほど、都合よくは出来ていないのが人間なのだ。

だから“人間性の解放”という詞に幻想をもたない。

人間性が解放されるときは、人間の野獣性が解放されるときだ。国家という暴力を独占した機関があってこそ、人間は安心して生きられているのだと思わざるをえない。

それを特定の独裁的人治国家を見て、国家=悪と断罪している輩を見ると、目出度い奴だなと思う。

三島由紀夫は「文化防衛論」のなかで述べている。

もし政治が人間性の敵であるならば、どうして人間を保護するのであろうか。ということは、「人間」を「人間性」の危険から守るために宗教が起り人間性に含まれる自然の脅威から人間を守るために反自然的なキリスト教が発明され、かつ宗教の欠点を矯正するために政教分離が起り、政治が宗教の一部を受け持って、人間を人間性から保護するために秩序維持の義務、ないし使命を負うたのである。(p99、自由と権力の状況)

この得体の知れない“人間性”というものから人間を保護する為に国家という暴力装置があり、その統治が及ぶ範囲内でこそ、人は人を信用できるのではないか。

この映画は、そういうことを考えさせてくれる。

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