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2011年3月 8日 (火)

グロテスク

>「電子書籍として流通させるために、性も暴力も排除され、世界の文学はつるつるしたものになっていく。小説には本質的な毒が必要なのに、解毒剤の効くような毒しか認められなくなってしまう

 出した作品は、ほとんどなにかの文学賞を与えられている感のある桐野夏生であるが、このひとの本を読んだのはこの『グロテスク』が始めてであった。

“理不尽さへの怒りを原動力に、本質的な毒を描く”のがこの作家の流儀か。本書は毒が溢れかえっていて、読むのは苦しかった。

 『グロテスク』 桐野夏生:著,(株) 文藝春秋,2003年06月

 読後感:☆

 グロテスク

 

【主人公の「わたし」には、自分と似ても似つかない絶世の美女の妹ユリコがいた。「わたし」は幼いころからそんな妹を激しく憎み、彼女から離れるために名門校のQ女子高に入学する。そこは一部のエリートが支配する階級社会だった。

ふとしたことで、「わたし」は佐藤和恵と知り合う。彼女はエリートたちに認められようと滑稽なまでに孤軍奮闘していた。やがて、同じ学校にユリコが転校してくる。

エリート社会に何とか食い込もうとする和恵、その美貌とエロスゆえに男性遍歴を重ねるユリコ、そしてだれからも距離を置き自分だけの世界に引きこもる主人公。彼らが卒業して20年後、ユリコと和恵は渋谷で、娼婦として殺されるのだった。】

 

何故これを読む気になったかと云えば、自分は「東電OL症候群」になってしまったからだろう。関連本を探していたら、この本を薦めている人が多いので読んでみたのである。

 読後感は不快であった。ただ、表題が「グロテスク」というくらいだけに、作家としては、この読後感はしてやったりといったところなのだろうと思う。

 著者はこの小説で、差別について書きたかったと云う。それでは何故、東電OL殺人事件を下地にして書いたのだろう。渡邊泰子の生き方を決定づけたものが、著者の視点から云えば差別であったということなのだろうか。だとしたら何の差別だろう。男女の差別? 女同士の差別?(たとえば美しさ・どれだけ異性にモテルかといったこと)

 結局、真実はもう分からないのだから、ここに踏み込もうとするなら虚構によって語らせる他にないということであろう。しかし桐野夏生自身も、これが“堕落”なのか“解放”なのか“復讐”なのか、決めかねているように見える。あるいは結論付けることをあえて避けたのか。

 本書は、娼婦として生き、そして死んだ「妹のユリコ」と「級友の和恵」について、「わたし」が語るという構成になっている。何故、著者はこの手法を取ったのだろう。現在進行形で娼婦となった二人の姿を描いていくのではなく、他人である「わたし」が回想し、語りかけるという手法にどういうねらいがあったのだろうか。

 「わたし」が「ユリコ」と「和恵」と、そしてこの二人を殺害したと思われる「チャン」たちの手記を読んで聞かせるという構成によって、読者は彼女たちに何があったのかを知る。しかし、この登場人物たちは皆、それぞれの主観によってお互いを評価しているし、容疑者である「チャン」自体も大嘘つきであるとして描かれているため、いったい真実はどこにあるのかが分からないのだ。

 これはいったいどういう種類の小説といえばいいのだろう。「真犯人は誰か」を当てるミステリー小説ではない。「グロテスク」という表題が示しているように、人間性の醜悪さを焙りだしたかったということか。

 いちばん解らなかったのは、東電OLを下地にして書いたこの物語に、どうして二人の娼婦を書かねばならなかったのかである。“怪物的な美貌”を持ち、生まれもっての「娼婦」として描かれる「ユリコ」の存在が何故必要だったのか。何故、渡邊泰子であるところの「和恵」だけにしなかったのか。

 自分としては、いちばん読みたいのは「彼女が夜の顔を持つに至ったのは何故なのか」であり、「彼女は何を思いながらその生活を続けていたのか」ということだった。虚構の物語の中でこそ聞こえてくる、渡邊泰子の声があるのではないかと思ったのだ。

 満たされない「昼の顔」を慰めるための「夜の顔」であり、その「夜の顔」によって受けたであろう自己嫌悪を、「昼の顔」によって慰めていたのではなかったか。

 「あたしはただの娼婦じゃない。エリートなんだから」という自意識が支えていたであろう「夜の顔」と、「あたしはただ、家と会社を往復してるだけの冴えない女なんかじゃない」という自意識が支えていたであろう、「昼の顔」。永遠に解けない謎であって、だからこそ「泰子症候群」になってしまうのだろうが、そこを中心に据えて欲しかったと思う。

 536項2段書きという本書は、正直云って長すぎる。たとえば、後半になって実は大嘘つきであるという描かれ方をする、シナ人の「張の上申書」などはいらなかったのではないか。彼がシナでどのように生き、どのように日本に来たかということを長々と書く必要はなかったと思う。大嘘つきであることを最後に臭わすなら、長々と読ませる必要がないだろうと。

 渡邊泰子のこころの声を聞きたい、その一端でも触れたいと思って読んだ自分にとっては、第七章の肉体地蔵〈和恵の日記〉だけが読みどころであった。ここでの「和恵」の声は、泰子自身もそう感じ、そうしていたのかもしれないと思わせるだけの、真に迫った描き方だと思う。

 ただ、女子高時代の、努力すれば「一番」になれると単純に夢想している努力信仰の「和恵」と、娼婦となった「和恵」がなかなか同一人物として自分の中では繋がらなかった。そこの繋がりが見えたら、渡邊泰子という生き方の一端を垣間見ることができたかもしれないと思った。

 現実の事件等でも、「まさかあの人がこんなことを」と云われるのがほとんどの世の中である。しかし、人物の内面の声を聞かせることができるのが虚構の世界であるはずで、そこがこの小説の中心にきて欲しかったというのが、自分の本音である。

 東電OL事件を素材とはしても、そこが中心に据えられてはいないようなもどかしさを感じながら読んでいたが、著者にとっては人間の内面の醜悪さ、どんな小さな差異にでも執着し、差別せずにはいられない、その「グロテスク」な人間そのものを描きたかったのであり、渡邊泰子自体を虚構の世界をかりて描くことにはなかったということなのだろう。

 語り手である「わたし」は、勉強でも運動でも外見でも一番にはなれないという自分の限界を見切り、競争から脱落することでこれ以上傷つくのを避けた。そして「悪意」という鎧を纏って人間社会の観察者になった。

 その「わたし」の名前が明かされないまま終わるのも、「ユリコ」も「和恵」も「わたし」の一部であり、そしておそらく読者の中にも「わたし」がいると読ませようとしたのかも知れない。

 兎に角長いのが難点であるが、女子高内部の人間関係のどろどろした様はとくに不快であった。良家のお嬢さんたちの通う学校内の、厳然たる階級構造。努力だけでは乗り越えられない壁。その中で、滑稽なまでに「努力」する「和恵」。

 この本の第七章 肉体地蔵〈和恵の日記〉は、きっと何度も読み返すと思う。読み返す度に辛くなるだろう。そして放心するだろう。

 拒食症によってがりがりになっていきながらも、鏡を見て、「大丈夫、あたしは前より痩せて綺麗になってる」という「和恵」。

 地蔵に向かって、「お地蔵さん、あたし別人になっちゃった。すんごく楽しいよ」と語りかける「和恵」。

 渡邊泰子の幻影を見た気がする。

 3月9日。14年目の命日がくる。  

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