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2011年4月25日 (月)

禁断の25時

禁断の25時

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酒井 あゆみ:著,ザマサダ, (1997/10)

読後感:☆☆☆

プロローグ

(一枚の写真二人の訪問者 ほか)

第1章 生け贄の女(出会いヘルス嬢とホテトル嬢のギャップ ほか)

第2章 異常という普通(“金の亡者”というレッテル「1円でも多くむしり取りたい」という心理 ほか)

第3章 危うい年代…なぜ30を過ぎてから?(お金が目的ではないレイプ説に疑問 ほか)

第4章 闇の中の終着駅(ホテトル嬢と立ちんぼの違い「イッちゃってる感じ」 ほか)

 これを読んでいると、桐野夏生の「グロテスク」で読んだ一つひとつの場面が思い起こされた。なるほど、本書を参考文献として書き上げただけのことはある。

 オレは“東電OL殺人事件”を、事件が起きた当時は特に気にも留めていなかった。なんとなくマスゴミが根掘り葉掘り被害者のことを報じていたような記憶が、おぼろげながら残っている程度でしかない。

 それが事件から10年が過ぎ、たしかnetでもその情報があるから間違いないとは思うが、民放で、いろいろな印象的な事件の中のひとつとして、この「東電OL殺人事件」のことを取り上げていたのを見た。その番組では、「渋谷OL殺人事件」と称していたと思う。

 その番組では、被害者の昼の顔と夜の顔の落差にマスゴミが群がり、彼女と遺族の人権を無視した報道の加熱に対する反省から、その後の事件報道のあり方を変えるきっかけになったのがこの渋谷OL事件であったというような切り口で放送していたはずだ。

 どういうわけか鳥越氏が出演していたことと、被害者の女性は経済誌に論文が載ったこともあるような才女であったという部分をおぼろげに記憶している。なぜか他の事件の話は記憶に残っていない。

 その後も、この事件について特に興味をそそられるようなこともなかったのだが、それから更に2年後、図書館で佐野眞一の「東電OL殺人事件」をどういうわけか手に取ってしまったのだった。引き込まれてしまった。飲まれたといっていい。 

 それ以来、オレは東電OL症候群だ。多分。

 夢遊病者のように。

 

 酒の量がさらに増えていく。オレは阿呆か。

 佐野本には、渡邊泰子の“心の闇”(?)に迫ろうとしながら、そこのみで一冊書き上げることに限界を感じたのか、拘留されているネパール人が無罪であることを訴えることに比重が傾いた感があり、彼女の謎の部分に引き寄せられた自分としては不満もあった。

 今のところ、渡邊泰子の内面に迫ったものとしては、オレにとっては、これが一番である。

 著者の経歴が信憑性を与えている。自分の身体を売る女たちの内面は、やはり男では迫れないのだろう。妄想で処理するしかなかった感のある佐野本と違い、ホテトル嬢としての経験を持ち、渡邊泰子と同じ店に在籍していたことがある著者の書いた本である。

 彼女と少ないながらも言葉を交わしたことのある人の書いた本である。それだけでもオレにとって貴重な本となった。 しかし、さらに症状は悪化していく気がする。

 読みどころとしては、佐野本では、“堕落”と分析されていた彼女の奇行の数々も、本書を読むとなんのことはない、「身体を売る女に特有の行動(心理)」であるということが分かってきた。もちろん、万人に当てはまるものでもないとは思うが。

 彼女は「金にがめつかった」という話も、「好きでもない男に身体を触らせるのだから、当然1円でも多く搾り取りたい」と思うのが女である、と云われたら納得せざるを得ない。単なるSEX中毒という言葉で片付けたくなるのは所詮、男の幻想でしかないのだろう。

 好きな相手でなくても、“ヤレル”ということ自体に「報酬」を感じる男とは、違うってことだ。

 それにつけても、「グロテスク」のネタ本になっているだけあって、読んでいて苦しくなる。ホテトル嬢としては明らかに歳もいっていて不利なのに、店の同僚の娘たちに敵意を剥き出しにしてみせるところとか、客に「チェンジ!」と云われても強引に食い下がるところとか。

 そして、風俗に身を置いた著者にすら理解を超えた、“立ちんぼ”という狂気。

 本当に、“イって”しまっている女でなければやれない狂気なんだと。たとえ、ホテトルが似たような行為であっても、「直引きによって客を取る“立ちんぼ”だけにはなるまい」と皆が思うのだという。そこまで落ちたくないと。

 その一線だけは越えたくないと。

 だが、彼女はその一線を越えてしまった。

 いったい何がそこまでさせたのか。  もはや、知る術もない。

 「あとがき」で著者は云う。

(“裕子さん”というのは、この店での渡邊泰子が名乗っていた源氏名のことである。)

 “裕子さんが心の中で求めていながら、遂に自分自身を受け入れてくれる場所に行き着けなかったのは、大声で「そこに行きたい」と叫ばなかったからだと思う。彼女はひとりで重い荷物を背負い込み、ヨロヨロと歩き出し、どこまでも続く暗い迷路を行ってしまった。誰に尋ねることもなく、手を借りることも拒否して、振り返りもせずただ黙々と歩いて行ってしまったのだ。”(p187~188)

 そして、

 “声を出して「幸せになりたい」と言い、そのために「力を貸して」という勇気を持ちたい”(p188)

 

 声を出して「幸せになりたい」と言う勇気。  他人に「力を貸して」という勇気。

 

 自分だけで「幸せ」をつくることはできないんだと直視すること。 そして、自分の限界も認めてやること。素直さ。

 

 桐野夏生は「グロテスク」で、“立ちんぼ”となって死んだ「和恵」を、“努力信仰の人”として描いた。努力は必ず報われるんだという、「信仰」。

 そうならないこともあるんだということを素直に認めれば、少しは楽になれるだろう。

 他人に「弱み」を見せることのできる可愛げのある人になれたら、もっと人生は生き易くなるのかもしれない。

 「声を出して“幸せになりたい”という勇気」

 

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