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2011年5月

2011年5月29日 (日)

絶えぬ住民とのトラブル~【地上最凶の生物】

http://mytown.asahi.com/ishikawa/news.php?k_id=18000001105290001

asahi.com:資源ごみ持ち去り横行-マイタウン石川 via kwout

シナ人に遵法精神はない。

嘘をつかなければシナ人ではない。

シナ人はどこへ行ってもシナ人であり、決して他国の風習を尊重しないし同化もしない。

人種差別と云いたいなら云ってろ。

事実なんだからしょうがない。例外は限りなく少ない。

人権問題に喧しい白人社会でもシナ人は期待を裏切らない活躍っぷりだ。

バンクーバーのハーバー沿いに建つ、コンドミニアムのオーナー組合で起きた異変について、大手不動産業者から聞いた。このコンドミニアムは毎月の共益費だけで千カナダ㌦(約九万円)を越える高級住宅で、白人系富裕層がもともと主な住人だった。

「そこへ中国系住民が入ってきた。するとゴミを踊り場に雑然と放り出すわ、外からの美観を考えて、窓は白いカーテンかブラインドと決められていたのに勝手に真っ赤なカーテンを下げるわ、オーナー組合でいろいろと問題になった。でも、彼らは聞く耳を持たない。それどころか中国系住民がどんどん増え、オーナー組合の過半数を占めると内規をことごとく変更していった。結果、共益費はカット、それまでいた管理人もクビ。たまりかねた白人系の住民は出て行ってしまった」

ニュージーランドでも同様の話を聞いている。オークランドで長年、知人が借りていたビルのテナントは日系の彼の会社を除いて白人系企業ばかりだった。管理会社からの通達で、表札の色はシルバーと黒で統一すること、大きさも決まっていた。

ところがこの二、三年で緑や赤など色も形もバラバラな「中国語の表札」に変わり、エレベーターは薄汚れ、タバコの吸殻が散乱し、白人系企業は耐え切れず引越しをしてしまったという。(p229~230,「中国人の世界乗っ取り計画」,産経新聞出版,2010

上に政策あれば、下に対策あり

地上最凶の生物シナ人に秩序を与えるのは不可能とみた。

2011年5月27日 (金)

野蛮の世紀

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テレーズ・デルペシュ/野蛮の世紀
販売元:HMVジャパン
HMVジャパンで詳細を確認する

テレーズ デルペシュ:著,

PHP研究所 (2006/06)

読後感:× 

 【誇り高き国家フランスで最高峰のフェミナ賞受賞作品を邦訳。テロなどで国内が荒れ続けるフランスにおいて、発売と同時に各誌・メディアで絶賛されベストセラーとなった本書は、21世紀の世界が瀕する危機をあぶりだす文明論であり、国際政治分析の書でもある。

 2度の世界大戦、植民地主義、ナチの強制収容所、ソビエトの列島収容所、原爆といった忌まわしき過去を戦死者の数字だけでなく、無残な体験を味わうことになった人間、その個人の苦悩に焦点をあて、著者自身の卓越した知見により、さまざまなエピソードを引き出し、積み重ねている。そして、21世紀が20世紀を超えてさらなる野蛮(バーバリズム)の世紀になろうとしていること、またその歴史に人々が無関心を装い、逃げだしていることへの警鐘を鳴らす。

 テロリズムの先進国拡大、核兵器の拡散、軍事大国化を続ける中国、保守化し波乱の様相をみせるロシア。世界のゆくえを直視する書。】

 本書は20世がいかなる時代であったかを再確認し、そして今世紀がどう展開していくかを見通す為の一助となるだろう。気位高き国家おフランス的知性による、格調高さを感じる文章も好い。回りくどい表現に苦しめられるのではないか、という予想を善い意味で裏切ってくれた。

 自己中心的な傾向は、白人の例に漏れずおフランス人も強いと思うのだが、この著者は均衡の取れた視点から世界を見ている

 外人の書くこの手の本では、日本はたいした位置を占めていないことが多いがこれは結構日本にも言及している。ただし、「野蛮の世紀」という表題からして分かるように好い意味で振れているわけではなく、東アジアの情勢が現在の世界において最も不穏な面を持っているという意味でである。

 アジアではまだ、第二次大戦が終わっていないと著者は見ているが、その理由として、いまだに朝鮮半島の統一は達成されておらず、また、ことある事に日本に対して“歴史認識”という外交カードを利用してくる特亜(シナ・朝鮮)の存在を上げている。

 そして、世界を混乱に陥れる可能性を持った、シナという最凶の難問についてもかなりの言及があるが、特に台湾問題の扱い方の難しさとその分析を読むと、沖縄から米軍を撤退させようなどという動きにオレは賛同できなくなるのだ。

 沖縄の人には申し訳ないが、これは地政学的な宿命と捉えてもらうほかないと思う。仮に日米が沖縄から引いて独立できたとしよう、間違いなくシナが盗りに来る。中共の軍事戦略からいって自明であろう。

 日米同盟不要論者は、覇権を塗り替えようというシナの執念を甘く見ているか、むしろシナの覇権を望んでいるかだろう。

 日本にとっても他人事ではない台湾問題であるが、著者はこう指摘する。

 一九一四年前のドイツとフランスの場合のように、両派を極端まで追いつめないようにすることが、まずなによりも配慮すべきことである。国際的に国家として承認されていないことから、台湾は危険な行動に走る可能性がある。これによって中国側は独立を求める運動とみなし、二〇〇五年で全人代で採択された反国家分裂法によって、台湾を攻撃する機が熟したと判断した場合には、中国がどういう行動にでるか予断を許さない。

 これとは逆に外交的に各国から承認された場合には、台湾にとっては独立宣言に等しいものとなるが、これが戦闘勃発の理由とはならない。これによって中国とは外交面での危機が生じるかもしれないが、武力紛争の形にはならないだろう。現在の袋小路を脱するためには、形としては一見過激だが現実としては平和的な、この方策は検討に値する。(p251,第二章 ふたつの中国)

 外交的に承認せよ、まずはそこからだというわけである。

 この著者はシナの歴史捏造に騙されていない稀有な人物である(孫文を評価しすぎだが)。シナの主張する台湾の領有権は、法的根拠が希薄であることを指摘し、故に台湾を外交的に国家として承認することだというのである。

 ひとつの中国なる、シナの国家的謀略を既成事実として承認してはならないのだということ。これは道義上の問題だ。

 これらの他にも、 terrorismや第三世界がもたらす影響等にも深い見識が示されていて読み応え十分であった。ただ、世界のさらなる野蛮化を予測しているものだけに、気分が暗くなってしまうのは否めない。

 

 1905年は世界が野蛮化するきっかけとなった劇的な年であるという視点も興味深い。この年は日露戦争が起き、有色人が白人を破るという衝撃を与えた。

 この1905年の象徴的な出来事としてEinsteinが特殊相対性理論を発表し、物理学の奇跡の年と呼ばれる。日本にとっては白人を粉砕した劇的な年に、40年後の悲劇の芽が出ていた事になる。

2011年5月22日 (日)

雨の降る日曜は幸福について考えよう

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 【中古】【0511SALE】エッセイ・随筆 ≪エッセイ・随筆≫ 雨の降る日曜は幸福について考えよう【10P12May11】

橘 玲:著

幻冬舎,2004

販売元:ネットショップ駿河屋 楽天市場店
楽天市場で詳細を確認する

読後感:☆

 【マイホームさえあれば安心だった日本人の人生設計。だがこの十数年ですべての前提が忽然と消滅してしまった。生命保険、年金、医療、教育、不動産、資産運用、市場経済を取り上げ、人生を自らの手で設計する知識と技術を伝授。】

 「不道徳教育」の役者が書いた随筆である。あの本の著者程ぶっ飛んでる感はないけが、あれに感銘を受けてはいるわけだから、やはりそっち側の人なんでしょう。
「財政再建は覚醒剤合法化」で、という主張も同じである。裏の金を表に出すことで、闇に消えていってしまう金に課税できるとともに、地下経済を衰退させる効果も期待できる、と。
この手の論はかなりよく聞く話ではあるんだけど、正直オレには分からない。理屈は分かっても“薬”に手をだしたことがないせいか、それが心身にどんな作用を及ぼすのか分からないんで、経済効果という面だけでしか肯定できないのだ。
自分には分からん“薬”で、なにやらラリッた連中に囲まれて生活するのも気味悪いんだよな。
つっても、合法化されりゃオレも試してはみるだろうけどね。
それにしても、経済の話はからっきしダメなくせに、こういうの読みたくはなるんだなぁ。まともに理解もできんのに。
なんつうか、いろんな人がいろんな理屈を述べてるわけだけども、どれもそれなりに尤もらしく聞こえちゃうんだわねぇ。困ったことに。
とりあえず高福祉社会を求めている奴らだけは、胡散臭いから眉に唾つけて聞いとくようにはしているんだけど。
そうそう、福祉といえば傾聴に値することを仰ってますよ。
米国の貧弱な社会福祉に比べて、ヨーロッパは公的年金や医療保険、失業保険が充実している。日本が目指すのは、そうした福祉国家だと言われる。
ドイツやフランスをはじめとして、ヨーロッパ諸国はどこも極右政党の台頭に悩まされている。それに比べて米国では、人種差別的団体は存在するものの、移民排斥を掲げる政党が国会で議席を獲得することはない。
一見、無関係に見えるこのふたつの話は、同じコインの両面である。米国に極右政党が存在しないのは、福祉が貧困だからだ。ヨーロッパで組織的・暴力的な移民排斥運動が広がるのは、社会福祉が充実しているからである。(p228,福祉のない豊な社会)
何故なら、福祉にまわせるパイが限られている故により貧しい「弱者」が現れると、自分の取り分がなくなることを先進国の「弱者」は知っているからだ。
そうなると、福祉を当てにして移民になられたんじゃたまったものではないという、国民の側からの当然の怒りが沸騰するわけだ。 
「弱者」が「弱者」を排斥する悲劇的な構図が、皮肉にも高福祉社会の実現によって作られてしまう。
ではどうすべきか。
著者の結論は、経済的な成功を掴む“機会”は平等に与えられるべき、ということ。
結果平等を求めるのは「カルト社会主義」であろう。あくまでも機会平等ってことにある。
誰もが労働条件の良いところを求めて、移動できる自由、働く権利。
その結果は自分持ち。
なんで福祉が貧弱であるはずの米国に移民が流れてくるのか。福祉を当てにしてではないとしたら何か?
やっぱりそれは、自由の魅力なんだろう。
そんな米国でも移民排斥の動きが活発化してきているという話を聞く。それはTerrorへの警戒心だけではなく、福祉国家化していることへの怒りの表れであろう。
移住してきて、すぐさま生活保護申請されたんじゃかなわねえっつうのは、あたりまえの感覚である。
この当然の感覚が分からんカルト社会主義者が日本には多いようで、最早どの政党もカルト化しているように思えてくる。
長年保護されてきた者は、その「保護を受ける」という権利が既得権となってしまい、自分で生きられなくなっているのかもしれない。引きこもりが長引くほど、自立しにくくなるように。
誰にでも善い顔しようとする国家は危ない。特に、「弱者」であればあるほど善い顔をしようとする国家は危険だ。そんな国家はもたない。共倒れという結末が待っているだろう。

2011年5月16日 (月)

神は沈黙せず

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山本 弘:著

角川書店,2003

読後感:☆

【超常現象はすべて「神」からのメッセージだった! 奇才が放つ1300枚!

この世界は、人類は「神」と呼ばれる知性体のシミュレーションなのではないか?人工知能学者である兄の行方を追ううちに、妹・優歌がたどり着いた世界の真相とは!?山本弘が放つ、長編SFエンタテインメント!

 UFOも、怪奇現象も、超能力も、すべて「神」からのメッセージだった!現代人の「神」の概念を根底から覆す長編書き下ろしエンタテインメント一三〇〇枚! 

 空飛ぶ戦車+七角形のボルト+UFO+ロボット型異星人・空から降ってくる魚介類+落下する巨大な氷塊・銀の十字架が落ちてくる+石ころの雨・走りまわるインドゾウ+野生の少女・フクロオオカミの出現+ビックフットの出没+肉食獣ムングワ・吸血怪物チュパカブラス+怪獣ネッシー・ボルトの雨+四人の異形の天使・空の戦闘+空の軍隊・血まみれの剣をもった白装束の軍人+怪蛇バジリスク・空飛ぶ帆船+幽霊飛行船・幽霊ロケット+エイリアン・コンタクト・エイリアン・アブダクション+MIB・修道僧のようなローブをまとった巨人+蛾人間・大きな耳と三本の牙が生えた怪人+頭に三つのコブを持つ男・トカゲ人間+狼少女・空から落ちてきた何百匹ものカエル+家の壁にしみだす油・家の中に降る雨+深夜に行進する幻の兵士・スプーン曲げ+透視・テレパシー+ポルタ―ガイスト・空から落ちてくる子供たち+コインの雨・空飛ぶオートバイ+空をわたる雄牛・血の涙を流すマリア+月に浮かぶ顔・幽霊タクシー+幽霊ジュークボックス・幽霊列車+光亀・ビックフット+翼長一メートルの青い蝶・幽霊人工衛星+人の顔をした雲・位置をかえる星々

 と学会会長で知られる、山本弘が書いた小説です。オカルトを果敢に批判する著者が書いた小説が、「神は沈黙せず」ときたかい!

 てな感じで、興味深く読ませていただきました。

 感想。

 「なげぇ~よ」

 、である。

 薀蓄多すぎ。いや、薀蓄出すのもいいんだけどね、物語の流れを中断しない形で、自然に出してほしいわけだ。

 なんていいますかね、著者の勉強の跡が見えすぎです。巻末の参考文献見ただけでも、この著者がたいそう勉強して書いたってのは分かりますがね、それを無理のない形で読ませるのが作家の腕の見せ所じゃないかと思うんですがね。

 まぁ、着眼点は面白いですけどね。神がいたとしても、どうせ善悪を超越してるっつうか、たんなる興味本位で世界を作って覗き見しているだけのろくでもない奴だろうさ、って思ってますんでね。

 つまり仮に神がいたとしても、その神ってのは人間が高度な電脳を使って仮想現実の場で発生させた知的生物の営みをsimulationして楽しんでいるみたいなものなんじゃないのか?、ってこと。

 この世は神(programmer)を楽しませる為に作られた、仮想現実だった!、というお話。

 所謂、超常現象ってやつも人間の科学的進歩の度合いに応じて、「発生頻度が増加する」って発想もなかなか面白いと思った。

 たとえば、超能力と思われる現象を起す人間がいたとする。しかしそれは、神が自分のMessageを正しく解釈できるだけの知性を、人類が持ち始めたと認識したことによって、神が人類に接触を図っているというわけ。

 空中から突然物が落下してくるのも、UFOが頻繁に現れるのも、総て神が自分の存在を誇示する為に起した現象だというわけです。

 大槻教授なら呵呵大笑するだろうなw

 まぁ、なかなか興味深いわけですが、すでに云ったように薀蓄が多すぎなんだな。

 しかも、登場人物も特に魅力あるのが出てこないという。まぁ、著者としては自分の持っている知識から得た着想を、小説という形で書きたかったということなんだろう。

 それが成功しているとは、オレには思えないけど。

 特にやれやれと思うのは著者の歴史感ね。登場人物に語らせているとは云っても、これは著者山本弘の歴史感ということにはなるわな。

 これはいろんな反応が起きる小説だろうなと思ったら、案の定「神沈掲示板」とでもいうべきものが存在していたw

  まぁ、いろいろとこの先へ進むきっかけを与えてはくれるよね。巻末の参考文献を読んでみたい気にはなるし。

 これは確かに、小説としての出来はよくないけど、何で世界は存在するんだ?、って探究心を刺激してくれる本ではあるんじゃないかと思う。

 科学、経済、歴史、オカルト等等、範囲を広げすぎてすでに古くなっている知識を基にして書いているなんて批判も受けているのは、ご愛嬌ってやつか。結局、オレは著者が参考にした本も総ては読んでいないし、最新の科学的知見ってやつも持ち合わせてはいないために、本書を絶賛することもできなければ、こき下ろすことも出来ないってわけだ。

 神はいるのかいないのか?

 そんなもん結論はでないだろうけど、創造主がいたとしても「崇拝する必要はない」っていう本書の結論部分には同意だね。

 おばちゃん!、朝日新聞はアサヒっちゃうからだめwwwwwww

2011年5月14日 (土)

ハリウッド・サーティフィケイト

ハリウッド・サーティフィケイト (文芸シリーズ) ハリウッド・サーティフィケイト (文芸シリーズ)

著者:島田 荘司

販売元:角川書店,2001
Amazon.co.jpで詳細を確認する

読後感:☆

 【LAPD(ロスアンジェルス市警)重要犯罪課に持ち込まれたヴィデオ・テープ。そこに映っていたのは、ハリウッドの有名女優・パトリシア・クローガーが自邸で何者かに襲われ、惨殺される様だった。しかも、殺害された後、腹をノコギリで切り裂かれ、子宮と背骨の一部が奪い取られていた。

 ヴィデオの中で犯人が口ずさんだ「P・A・T・T・Y・I・A・N」は何を意味するのか?LAPDは、パティの親友の女優・レオナ・マツザキに連絡を取った。親友の敵討ちに燃えるレオナは、一人の女優志望の女性と会うことになる。ジョアン・ウィネシュ。なぜか記憶を失っており、何者かによって腎臓と子宮、卵巣を盗まれていた。覚えているのは、イギリスでイアン・マッキンレーという民俗学者と暮らしていたことと、彼が語って聞かせてくれた『ケルトの伝説』だけ。「子宮」にまつわる話が多いその伝説に、レオナは事件との奇妙な符合を感じた。

 一方でLAPDに新たなヴィデオ・テープが送られてきた。次の犠牲者はローレン・トランプ。パティやレオナに比べれば、はるかに無名に近い女優だった…。なぜ女優の「子宮」は奪われたのか?現代に甦える「ケルト伝説」の真実とは!ハリウッドを舞台に、奇才が放つ、本格ミステリの大長編1700枚。】

 島田荘司の本を初めて読んだ。例によって装丁買いである。

 なもんで、島田荘司好きの間ではお馴染みの御手洗シリーズだのレオナ・マツザキだのという登場人物たちのことも、その関係がどういうものかも知らずに読んだ。

 感想を一言ですますなら、「なげぇ~よ」である。薀蓄が多いなと思った。オレにはそれが余計に感じて、読む意思が度々挫かれた。

 作家は一冊書くにも相当に勉強するものなんだろうとは思うけど、その勉強の跡をこれ見よがしに出さんで欲しいんだな~。

 途中、ケルトにまつわる神話だとか、人体が拒否反応を起さない完璧な臓器を取り出すための、クローン人間製造についての知識とか、長いよ兎に角。

 作者勉強したんだね~、興味あるんだねそういうの、ってそこは理解するよ。うん。でも長いっす。もうちょっと削ろうよ。そのほうがスッキリしたと思うね。

 話の核になってる部分は、今後の文明の進み具合によっては有り得るかな~、と思わせるものはあった。ただ、Splatterものが嫌いなオレには、ちとツライな。

 んで、Mysteryにつきものの謎解きですがね~、まさか“あいつ”と“あいつ”が“あれ”だったとは!、て結末でしたが、やられた!っていう清々しさみたいなもんはなかった。このシリーズを読んでいこうという気も、今のところ起らないな。続きがあることを臭わす終わりかたしてるけど。

 ところで、島田荘司って死刑反対派なんだね。 好きにはなれそうにない作家だ。

2011年5月 9日 (月)

沈黙の復讐

よせばいいのに観てしまった。

どの辺が“沈黙”なのか、さっぱり分からん。

しかもシリーズになってないのに“沈黙シリーズ”と勝手に云ってるしw

んなこたぁど~だっていいんだよw とりあえず不況に強いオヤジ!スティーブン・セガール様だw

相変わらず、どっちが悪党なのか分からん暴れっぷりであった。合気道なのかなんなのかもよう分からん、ただただ向かってくる奴をブッ飛ばすw 

それだけの映画だ。

内容の解説なんぞ必要なかろう。 スカッとしたけりゃ観ればいいのさw

まぁ、悪党が二人でますわな。 で、途中からいろいろあって不況に強いオヤジ(これ、映画のチラシに書いてあるわけ)と組んで、チンピラをやっつけるっつう流れ。

2011年は、男達の熱い友情に男泣き!! (こいつもチラシに書いてあったw)

オヤジだって A K B 闘い続けて祝40作品!

A[Action] 最高のアクションシーン!前作の160%!!(当社比)

K[Killer] 瞬き禁止!最強オヤジは秒殺だ!

B[Battle] ご安心下さい!おなじみセガール武道炸裂!

配給会社ワル乗りしすぎでないかいw

しかし、オヤジさん、最近太りすぎだろ。 動きが辛そうだったぞw

2011年5月 8日 (日)

元日本創価学会副会長「中国は懐の深い民族」

http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2011-05/08/content_22518318.htm

元日本創価学会副会長「中国は懐の深い民族」_中国網_日本語 via kwout

>池田先生に随行し、歴代国家指導者との会見に同席させていただいたのをはじめ、人民との交流にも様々に直接体験させていただいた

それが共産党の息のかかった“人民”であることを考えないらしいなw

>儒教の基本理念(三綱五常)は、あくまで表の顔、実際の本音は、「義侠心」である、この義侠心が「面子」である。

そうかそうか!(・∀・)ニヤニヤ

>これが、良いかどうかを論ずるつもりはないが世界人口の五分の一を占める中国の風土、歴史、社会の中で長年培われてきたもので、現実にこのことが、生活のなかで息ずいているのであり、中国人と付き合うには、充分理解し、尊重することが大事であろう。

そうかそうか!(´,_ゝ`)プッ

>父が馬族の頭領との会話を中国担当をするようになって、中国を侵略する日本人に対する言葉は「侠」の意識からの発露ではなかろうか。なんとおおらかな、懐の深い民族でなかろうかと思った。

そうかそうか!`;:゙;`;・(゚ε゚ )ブッ!!

2011年5月 7日 (土)

私という病

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 私という病

中村 うさぎ:著,新潮社,2006

読後感:☆

【「どうして私は、女であることを、おおらかに正々堂々と楽しめないのか」—男に負けないよう必死で手に入れた「勝ち組」の称号が、恋愛マーケットでは惨めな「負け組」と見なされる。愛されたい、だけど見返してやりたい…相反した女の欲情を抱いた作家が叩いた扉は、新宿歌舞伎町・熟女ヘルス。過激な“実体験主義”に潜む、普遍的な「女」の苦しみに肉体ごと挑んだ、戦いと絶望の全記録。】

目次

第1章 セレブ妻・叶恭子(源氏名)のデリヘル日記
第2章 女は、女であることを確認してこそ「女」となる
第3章 男の「自己正当化」病と、女の「引き裂かれ」症候群
第4章 東電OLという病

「どうして私は、女であることを、おおらかに正々堂々と楽しめないのか」と、感じていた著者は“デリヘル”体験にまで踏み込んだ。その体験もふまえた“女”であることの苦悩を、ときに自嘲気味に書き綴った本である。
 3日間とはいえ、なかなかその道に踏み込もうとする女はいないと思う“デリヘル”体験を、作家という肩書きをもった人がやってみたというのが凄い。
 デリヘル体験を綴った章は、おちゃらけた口調で書かれている。他の章と違うのは、やはり自己嫌悪から来るのだろうか?
しかし読むのが疲れる本ではあった。疲れるってより、辛いというべきか。
 

 兎に角、男に対する怨念のような心情の吐露が、これでもかと書き綴られているのだ。

 これが女性たちの心情を代弁しているものだとすると、男という生物の業の深さを思わずにはいられない。

いったい何故、著者はこんな体験をしたのか。自分探しか?

 著者曰く、女としての“価値”を確認したかったのだという。数字ではっきり自分の価値を示される、自分に値段を付けられる。それなら風俗だ、と。

「男を欲情させたい。でも、“かってに”欲情されるのは嫌だ。」

 露出の多い服装をしているからって、男を誘惑しているなんてかってに都合よく解釈すんな! 
 女性の“オシャレ”には、同性に対する競争意識という面が強いのであって、野朗ども、かってに妄想すんじゃねえ!、ということ。

やっぱり、男女が分かり合うってのは無理なのかねぇ。

 ところで、そもそもオレが本書を読んだのは何故かっていうと、東電OLつながりだから。

著者をこの道に踏み切らせるきっかけとなったのは、あの東電OLだった。

これを読んでも分かる。いかにあの東電OLが与えた衝撃が大きかったかが。

 一人の作家が、社会的にも「先生」と呼ばれるような身分におさまった人間(元々イッちゃってる面があったにしても)が、デリヘルに踏み込むほどの影響を与えてしまうとは。

 この現象を“東電OL症候群”と読んだのは、作家、佐野眞一である。

 この東電OLのことを考えると、他のことがどうでもよくなってしまうというほどの存在感。

症候群になるのは女性だけではあるまい。

 いったい何が、あの東電OLをそうさせたのか。本人が居ない今となっては、最早知ることはできない。 巷には、原発に纏わる政治的な陰謀と見る向きもあるようだ。

 オレには分からんとしか云いようがない。彼女は東電という会社を、誇りにしていたという。わざわざ自分を買った客にまで、自分が東電の総合職に就いていることを教えていたというくらいだ。

この事件には、考え始めると謎が深すぎて気持ちが静まらないものがある。

何故、東電は彼女を解雇しなかったのか? 彼女が売春していたことは知られていたらしいのに。

また彼女自身も、会社に売春していることが知れたらどうなるか考えなかったのだろうか?

謎は深い。

佐野眞一が云うように、「謎という水を満々と湛えて、今にも決壊寸前のダムのような存在」である。

その謎とは何か。中村うさぎの分析。

 会社の帰りに駅のトイレで濃い化粧をしていた「夜の出勤前」の彼女の姿を見かけた、とう証言を耳にしたことがある。コスプレだ、と、瞬時に思った。「あんなに濃い化粧をするなんて、やっぱりちょっと頭がおかしかったのだ」という文脈で語っていた人もいたように思うが、彼女には、「濃い化粧」が必要だったのだ。だって、コスプレだもん。非日常的な衣装や化粧で自分を別人格に変える儀式だもん。(P141,東電OLという病)

彼女は、渋谷109のトイレで変装していたといわれている。化粧が下手だったとも云われているが、中村うさぎ曰く、それは“コスプレ”なんだと。

生のままの自分ではできないことも、それによってできてしまったのだろうか。

 東電OLは摂食障害だったと言われているが、摂食障害の女たちには根源的な「女性嫌悪」があるように思える。痩せ細った肉体は「豊満さ」という女性の記号を拒絶しているし、拒食や嘔吐で生理が止まることすら、彼女たちにとっては密かな悦びであったりすることもあるらしい。摂食障害は「成熟したくない」という願望の表現だと言われるが、それは「大人になりたくない」というよりも「女でありたくない」という願望ではないかと、私は思うのだ。(P144,同)

酒井あゆみによると、彼女はびっくりするほど食欲旺盛であったというが、しかし、箸のように細い足とも形容されている。兎に角、摂食障害というのは間違いなさそうである。

その心理を「女性性の拒絶」と著者は見ている。

切羽詰った人間には、他人の声なんて聞こえなくなる。東電OLも、そうだったのだ。売春という行為が露見すれば、築き上げてきた社会的地位をすべて失い、女としての評価も暴落し、揶揄と批判と憎悪の対象となって、世間から石もて追われることくらい、重々承知だったに違いない。(P147,同)

 わかっている。東電OLの傲慢さを、この私も抱えている。露悪という行為が与えてくれる、うっとりするほどの優越感。おまえらに何がわかる、と、己の破滅を誇示する恍惚。(P154,同)

己の破滅を誇示する恍惚。

思えばこの事件に世間が群がったのは、彼女が社会的にも羨まれるような立場にあったからだろう。ある高みにまで築き上げたものがあったればこそ、そこから“堕ちていく”見事さ、崩壊の美とでもいうべきものがあったのではないか。

築き上げたもののない、底辺にいる人間が同じまねをしたところで、世間はなんの興味も示さなかっただろう。

 東電OLは、自主的に個人売春をすることで、自分に「性的客体」であることを押し付けようとした人々に対してリベンジを果たしたような勝利感を得たのだ。それが、彼女を夢中にさせた恍惚感の正体であった。濃いメイクをして別人のコスプレをし、「性的強者」のキャラを楽しんだ。それは、自分が「性的弱者(他者から受動的な立場を押し付けられるのは、「弱者」だからこそである)」のポジションに置かれているという認識に苛立った挙句、己の肉体の「女性性」に嫌悪を抱き、摂食障害という病を背負い込んでしまった彼女が、己の主体性を取り戻そうとした最後の足掻きであったのだ。(P167,同)
感情移入しすぎて、東電OLの気持ちを代弁した気になってしまっている面もあるが、過剰なる自意識こそが「私という病」の根源という著者の分析には、聞くべきものがあった。

そして、生前の東電OLを知る人の言葉を紹介している。

「彼女は、闇のようなオーラを放っていました。彼女がそんな副業をしていたとは知りませんでしたが、それでも彼女は社内でひと際目立つ異質な存在で、彼女が黙って隣に座っているだけで彼女から滲み出てくる闇にこちらが侵食されてしまうような・・・・・・そんな感じの人だったのです」(P170,同)

2011年5月 3日 (火)

神なき時代の神

 神なき時代の神 キルケゴールとレヴィナス

神なき時代の神 キルケゴールとレヴィナス

岩田 靖夫:著,岩波書店,2001

読後感:△

【哲学とは何か、それは「善く生きる」ことの意味を見いだそうとする営みではなかったのか?

高度に発達した知識の体系と日常的に蔓延する不正や悲惨とに取り囲まれたわれわれは、この基本的な姿勢を失っているのではないか?

本書は、ユダヤ人哲学者レヴィナスを手がかりに、哲学の意味を倫理と信仰へと問いつめ、神の不在と逆説とが切迫した問いとなった現代における信仰の意味を探る。明快な叙述のうちに、「顔」に対する「応答」について語るレヴィナスの独特で難解な議論が読みとかれ、倫理的責任の引き受けに結晶する究極の神信仰が取りだされる。】

【目次】

Ⅰ:否定と跳躍—ソクラテスとキルケゴール

Ⅱ:死にさらされた裸と至高性—レヴィナスの語る顔,神の超越と人間の責任—人間を通してのみ働く神,レヴィナスにおける死と時間—ハイデガーとの対比において

Ⅲ:存在の「かなた」—人と神における近さと遠さ

 

 本書は、神の存在をなんとかして肯定しようとして書かれたものなんだな。でもオレにとっては神の存在なんぞ、居ようが居まいがしったこっちゃない。どうせ居ても碌なもんじゃねえだろうから。

 レヴィナスもキルケゴールも岩田氏も碌に知らないオレが、なんでこんな耶蘇教の臭いがプンプンする本を買ってしまったのか。書店で立ち読みしていて、ある言葉が目に入ったからだった。

 

 善意は、体制としては、組織化された体系としては、社会的な制度としては、不可能である、とレヴィナスは言う。人間的なもの(人間らしさ)を組織化しようとするあらゆる試みは挫折する。たとえば、マルクス主義がスターリン主義に変質したということ、これは人間的なものの追及が正にそれがのり超えようとした反人間的なものに変質したという意味で、人間的なものに対する最大の侮辱であったと同時に、人間的なものを組織化できないことの証明でもあっただろう。(p53,死にさらされた裸と至高性—レヴィナスの語る顔)

 >人間的なもの(人間らしさ)を組織化しようとするあらゆる試みは挫折する。

 この言葉ひとつである。これが本書を読むきっかけとなった。

 常日頃から、はたして国家に代わり得る、もっと“人間的な”体制に移行する日は来るだろうかと思っていたから、本書でそれについてなんらかのカギを見つけられるかも、と思ったのだ。

 

 しかし、読んでみても人間と体制についての見解が変わることはなかった。

 国家であれ自治体であれ、果ては宗教団体であれ、組織を人間的なものにしなければいけないという問題意識が存在するのだが、その場合の“人間的”なる意味は、人間の善意とかあらゆる肯定的な面だけを指しているはずである。

 人間性の肯定的側面だけで運営される組織など、本当に可能だろうか。オレの見解は、これについていまだ否定的である。

 あの阪神淡路大震災では、実に36時間もの「空白の時間」があったという。「自治体の要請がなければ動けない」という、この恐るべき感覚。他人の苦しみを我が事として受けとめる感性のみならず、非常事態と平時を見分ける知性もない。

 あれから16年経ち、今度の東日本大震災ではどうだったか。やはり「自治体の要請」を待つという絶望的なまでの官僚主義を晒した。

 著者は、マザー・テレサの行動をひとつの手がかりとして、こう語る。

 マザー・テレサは社会改革をしていたのではない。一人一人の人間に対して、その「かけがえのなさ」において、関わっていたのである。彼女はいつも「この一人、この一人」と言っている。その一人一人に、神の現れとして、仕えていたのである。人を生かしつづけているものは、この現実の生における小さな善意である。(中略)

 だが、この一人から他の一人へと向かう小さな善意は証人のいない善意である、ということをも心得ておかなければならないだろう。それは、あらゆるイデオロギーを超えた、いわば「思想」のない善意である。なぜ、思想がないのか。なぜなら、それはあらゆる体系の外、あらゆる実定宗教の外、あらゆる社会組織の外にある善意だからである。それは、根拠なき無償の善意であるから、永遠なのである。(p54,同)

 「思想」のない善意。これが一つのカギか。

 本書から得るところもそれなりにあったが、どうしても耶蘇教の臭いがキツイ。罪の意識は人間の内部からは絶対に立ち現れてはこない、それは人間の外の絶対者から来るものだ。とか、人は生きるかぎり罪人であるとか。よくこんな宗教信じてノイローゼにならないもんだなと思う。

 人間は他者に対して、無限に倫理的責任を負っているとかいう論調の、レヴィナスの思想もはっきりいって迷惑だ。

 「思想」のない善意。突き詰めるとするならここか。

2011年5月 1日 (日)

霞ヶ関 影の権力者たち

霞が関 影の権力者たち

高山 文彦:著,講談社:刊, (1996/01)

読後感:×

 【「国家の大計はわれわれが決める」省益第一を死守し、政治家をあの手この手で術中にはめ込む洗脳術。姿なき支配者、官僚の「組織の掟とマニュアル」とは。官僚支配の迫真ドキュメント。 】

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第1章 政治家を育てて“殺す”大蔵省の洗脳

第2章 人・モノ・カネ=外務省の「大国」への独走

第3章 外圧まで動員した「統廃合つぶし」の搦手

第4章 天皇家の憂鬱をさらに深めた“内と外”の力

第5章 北朝鮮が激怒した“お役所仕事”の顛末

第6章 人の痛みを通さない組織の掟とマニュアル

第7章 官僚の頂点・官房副長官の根回しと情報操作

 これは、自社さ連立政権当時の政・官の闘いの記録である。したがって情報としては古いのであるが、現在の状況と比べてみても大差はないだろうと思う。

 よく云われる事だが、この国を実質的に治めているのは「官僚」であるということを、本書を読んであらためて知った。もちろん、ここに書かれていることの全てが事実か、オレには確認しようがないのは云うまでもない。でもまぁ、実際こんなもんだろうなと思う。

 選挙という洗礼を受ける議員はいわば、倒産の憂き目に遭う儚い存在ともいえる。しかし官僚には倒産はない。仕える大臣が代わろうが、自分らの立場は安泰だ。政治家が人事に手をつけることも許さないというくらいだから、国民からすれば闇の権力である。

 一応、公平を期すために云うと、官僚には勿論強い使命感を持って公務に就いている人間は多いと思うよ。ただ、地位が上がるにつけて誘惑が多くなるわけだ。そのへんは民間にも原因はあるんじゃないかと思う。お互いの利害が一致するから、癒着ってもんがおきるわけだろう。

 で、本書は読後感が胸糞悪いのは扱っている対象が対象だけに仕方ないんだが、小説のような感覚で読めたし、政・官の対立の一面を垣間見れるということもあって、面白い読み物にはなっている。

 逆に云うと、著者はその場に居たわけでもないはずなのに、政治家や官僚たちの会話をよくここまで生々しく再現できるな、と思ってしまう。さすがに会話のやりとりには多少の創作はあるんじゃないかと思った。取材した相手だって、当時のことを完璧に再現できるわけではあるまい。自分に都合のいいように語っていないとも限らない。

 つまり、あくまでも政治劇という読物として興味深く読むことはできたってこと。加藤紘一だの河野洋平だの武村正義だのといった、オレの嫌いな議員の意外な一面を見たのもなかなか面白かった。 だからといって、別に好きにはならないんだが。

 本書を読むかぎりでは、財布の紐を握っている大蔵省(現・財務省)が一番権力があるってことかな。

 大蔵省という官庁は、たとえどんな大物政治家が乗り込んでこようとも、一丸となって省の考えを植えつけていこうとする。大蔵省のある幹部よれば、それを“ペレストロイカ”とか“洗脳”などと省内では呼んでいる。(p19,第1章 政治家を育てて“殺す”大蔵省の洗脳)

 ちなみに、日銀の総裁は大蔵省OBがなるようになってるらしい。

 それから外務省。

 国家連合の常任理事国入りを目指しているという日本だが、それを最も望んでいるのは、実は外務省かもしれない。

 元外務官僚の浅井某の発言として、外務省の思惑をこう書いている。

 「現在の安保理は、常任理事国で秘密会議もやります。現実にはそこで意思決定すれば、それを国連に押しつけることができるわけです。常任理事国にさえなっていれば、世界中に決定を押しつけられる。これは外交をやるものにとっては、たまらない魅力です。(p104,第2章 人・モノ・カネ=外務省の「大国」への独走)

 で、これに関しては政治家のほうが、憲法問題も絡めて、慎重な態度であるようだ。どうも外務省の人間は、連合国にあって肩身の狭い思いを強いられているようである。それだけに、早く常任理事国入りしてデカイ態度をとりたいのだろうな。

 

 だが、米国に追従しているだけの日本が常任理事国入りするのを望まない国が多いわけだ。米国の発言力が増すだけであると思われているのだろう。

 オレとしては、いまだに旧敵国条項(53条・107条)を持っているような糞国家連合なんぞに無駄金使うのはやめてもらいたいと思っている。常任理事国なんぞにならなくていいから、この下らん国家連合への拠出金を減らしてもらいたい。

  

 大丈夫、シナと朝鮮(めんどくせえから南北一緒くたにしてやる)という、日本の常任理事国入りを死ぬほど嫌がっている奴らが、日本がアホみたいに払っていた無駄金の穴を埋めてくれるだろうw

 

 もう一つ、本書の読みどころ。 外務省による皇室の政治利用。 雅子妃と皇太子殿下の婚約の裏側。非常に興味深い話である。

 天皇家と政治は、明確に分離されていなければならないというのだ。だが、ここにいたって、疑問視されるのは、やはり雅子妃の父、大和田恒の存在である。

 本来ならば、天皇家と縁戚関係で深くつながった時点で、日本外交の中枢をになう役職からは退くべきだったのではないか。政治経済の利害がはげしくからみあう世界から距離をおくというのが、天皇家に対する配慮というものではなかっただろうか。しかし大和田の言動からは、積極的に外交舞台の中心人物でありつづけようとしている姿ばかりがうかがわれる。(p197,第4章 天皇家の憂鬱をさらに深めた“内と外”の力)

 阪神・淡路大震災の際も、被災地を訪問したいという皇太子殿下に対して、外務省の意向を慮って予定通り中東訪問をやむなしとする雅子妃。小和田家に纏わるあの噂は本当なのかねぇ。

 まぁ、そんなこんなで大蔵省(現・財務省)や外務省という強大な権力と、政治家の攻防はなかなか見ものであった。下手なTV劇なんぞ見るより、政治の方が断然面白い。

 ガキの頃は選挙速報を見て、こんなもん何が面白いんだと思っていたけど、今となっては下らんジャリタレの出ている番組なんか見てるより、よっぽど面白いと感じるようになったわ。筋書きのないドラマってやつか。  

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