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2011年7月

2011年7月29日 (金)

NetがあればTVはいらんw

 

【 日本人おばあちゃんの知恵袋 】

        ,,.---v―---、_        日本人はな、お互い様やねん。
     ,.イ" | / / / /~`'''ー-、    相手に一回譲ってもうたら、
    //~`ヾ、;;;;ソ'''''''''ヾ、   ,.ヽ ヽ   今度は自分が譲るねん。
   /:,:'       ,....  ゞ 彡 彡、ノ )  そうやって、うまいこと回っていくねんけど、
   !/  ~`ー'",..- ...   〉     ! (  『 あの人ら 』は違う。
    i   ̄~`        !  彡  |ノ   一回譲ったら、つけこんできて、
   ,i ,.- 、 ゝ " '" ~ ~`  ヾ ,,--、 |    こっちはずっと譲らなあかん羽目になる。
  /         _    ヾ"r∂|;!   それでも『あの人ら』は平気なんや。
  ヾ` '⌒` ;::   "~ ~` 彡  r ノ/     カドたてんとことおもて譲り合うのは、
   i    ノ           _,,.:'     日本人同士だけにしとき。
   ヽ ノ"( 、_,..:ー'"ヽ、 : : :   ,i /      そうせんと、『 あの人ら 』につけこまれて、
   ヽ、 ,. :: ::  ヽ      ノ:|ラ:)`ヽ、  『 ひさしを貸して母屋を盗られて 』
     ヽ、`''''"""''''" '  ,,..-'" //   \-、  日本がのうなってしまうからな。


  嫌われることばかりをしてる人を嫌うのは、差別やない。
  差別、差別と印籠のように突き出してくる人間こそ卑怯者の差別者なんよ。

        ・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

 地上波digitalへの移行を機に、TVを捨て去ったオレは勝ち組wwww

 

 アホな番組をわざわざ美しい映像で見る必要がない(爆)

2011年7月26日 (火)

ふるさとに寄する讃歌

Images

ふるさとに寄する讃歌

坂口 安吾:著,角川文庫:刊,1971

読後感:△

 通勤時に読むに文庫本はもってこいなのだ。この時、例えば大藪春彦の小説などを読むのはよろしくない。熱くなりすぎるし、毎日同じ日常に虚しくなるのだ。仕事に行く気力が萎える。

 専らのお気に入りは私小説の類である。明治から昭和の文豪のものがいい。ちょっと憂鬱な気分になるときはあるけど。

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 坂口安吾。云わずと知れた無頼派である。「堕落論」は好かった。「暗い青春魔の退屈」も好い。ただ、今のところそれ以外の小説では相性は悪い。

 

 本書は短編集である。わりと相性の好かったのは、「姦淫に寄す」かな。

 これはある大学生(下宿の隣部屋の住人が自殺してても気づかないし、知っても何も感じないような男)が、聖書研究会で出合った氷川澄江という自称未亡人と、彼女の別荘で一夜を過す話し。この捉えどころのない女性、解説によると元になった人がいるらしい。人物の描き方が好い。

 結局、その一夜に何も起きなかったのだが、何も起きなかったところにこの物語の“甘美”がある。

 

ところで、オレは本を買うなら断然古本派である。安いからというだけではない。前の持ち主の足跡のようなものが残っているのが好いのだ。

 どんな人に読まれたのだろうと。

 

 

 

 

2011年7月24日 (日)

東電OL事件、再審の可能性

 東電の原発事故と、この事件の14年目にして新事実という展開。佐野眞一的に云えば、「渡邊泰子のまなざし」を感じるというところか。

 犯人はいったい誰なのか。ゴビンダ容疑者は冤罪なのか。

  この報道をTVで見たとき、ついにきたか、再びこの事件が注目を浴びる日が、と思った。

 なぜかこの事件はオレを興奮させる。被害者の行動の謎に迫ろうとしても、もう無理だろう。当人はそれを語らずに逝ってしまったのだから。

 この事件はもう一人の“被害者”を生んでしまう可能性がある。今、再び佐野眞一の本を読み返しているところだが、これを読む限りでは、ゴビンダ氏は“シロ”だろうと思えるのだ。

 検察側は事件を早いとこ収束させようとして、捜査が杜撰になっていたのではないか。あるいは真実を隠そうとしているのか?

 この事件に関して、いろいろな憶測が飛び交っている。原発利権だ、CIAだと。。単なる捜査の手抜きか黒幕の工作か。

 佐野本から1997年3月8日の被害者の足取りを辿ってみる。

 11時20分、杉並区永福3丁目の自宅を出た彼女は井の頭線西永福駅に向かう。渋谷駅で下車し、東急百貨店東横店の食品売り場でサラダを購入。山手線で西五反田へ向かう。

 12時30分頃、西五反田2丁目のSMクラブ「マゾッ娘宅配便」に出勤したが、その日は客はつかなかった。

 17時30分頃、退店。

   ~~~~この間の足取りは不明~~~~~

 19時(18時40分?)頃、渋谷駅ハチ公口前で待ち合わせの常連客A氏と円山町のラブホテル街へ向かう。途中、円山町1番19号のセブンイレブンにておでんを購入。

 19時13分頃からA氏とホテル「プリンセス(クリスタル?)」に滞在。

 22時16分check out、道玄坂派出所前の交差点でA氏と別れる。

 22時30分過ぎ頃、円山町6番10号の青果店前で立っている(客引き)のを目撃される。その他、同町5番萩原ビル前付近の道玄坂で4,5人の男に声をかけている(客引き)のも目撃されている。

 23時25分頃から45分頃、男女のアベックが喜寿荘1階通路に通じる西側階段を上がっていったのが目撃される。この時の女性の背格好は発見当時の被害者のそれと同じ特徴を示していた。目撃証言は、喜寿荘地下の「まん福亭」に父親を迎えにいったS氏による。

 【この時同行していた男の姿というのが、東南アジア系の顔立ち、女性と身長がほぼ同じ、黒と白で左脇に赤いポシェットのようなものが付いたジャンパーを着ていたという。】

 3月9日0時前(23時45分頃)、喜寿荘101号室から「あえぎ声」と思われる声を聞いたと、喜寿荘203号室の住人H氏(当時女子高生)の証言あり。

 【このH氏の証言から、犯行時間は3月9日の0時過ぎから0時半前あたりと推定される。】

 3月12日、被害者の母親から所轄の高井戸署に捜索願いの届出が入る。ここで高井戸署は『特異家出人』と認定して捜索し始めたが、これは被害者の母親から、以前から娘は「売春」していたので、事故に巻き込まれたのではないかと事情聴取していたためだという。

 同日、渋谷経由西永福・新橋間の定期が入った被害者の定期入れが、都電荒川線の新庚申塚駅に近い巣鴨5丁目の民家の庭で発見された。

 彼女の遺体が発見されるのは、それから一週間後の3月19日17時頃である。発見者は渋谷区桜丘町のネパール料理店「カンティプール」の店長、M氏である。

 このM氏は3月18日の15時頃、101号室に立ち寄っている。その時玄関横の腰高窓が開いていたため中を見ると、北側和室六畳間に人が寝ているように見えたと証言している。「ネパール人の女が寝ているんだろう」と思って、そのまま開いていた玄関の鍵を掛けて立ち去ったという。

 なんというか、この事件には腑に落ちない点いろいろあるが、このM氏の証言もよく分からない。ゴビンダ氏に部屋の鍵を預けていた経緯があるとはいえ、本来借り手のいない部屋で人が“寝ている”という状況を見て、管理者として何も云わずに去るというのはどうだろう。

  もう一度この事件の流れを整理してみようと思う。

2011年7月20日 (水)

片岡K・・・・w

おもろい奴み~っけ!(爆)

お祭り騒ぎに冷静にツッコミ入れる、大人な人w

嫌いじゃないぞ~、そういう奴w

  この御仁がどういう人物なのか、よくは知らんし知る気もないが、せいぜい世間に騒がれるようなものを創造してくだされ。

  応援はしないけど(爆)   

2011年7月18日 (月)

中国の戦争宣伝の内幕

中国の戦争宣伝の内幕―日中戦争の真実 中国の戦争宣伝の内幕―日中戦争の真実

著者:フレデリック・ヴィンセント ウイリアムズ
販売元:芙蓉書房出版,2009
Amazon.co.jpで詳細を確認する

読後感:×××

 【宣伝工作に巧みな蒋介石軍に対し、いかにも宣伝下手な日本人 アメリカに対するプロパガンダ作戦の巧妙さ―ラルフ・タウンゼント(『暗黒大陸中国の真実』)だけではなかった!日中戦争前後の中国、満洲、日本を取材した米人ジャーナリストがいた!日米関係の悪化を懸念しながら発言を続けたウイリアムズが訴える真実とは?―。】

 【目次】 第一章・極東の現状、その全体の俯瞰図 第二章・西安事件と頻発する日本人虐殺事件 第三章・第二次上海事変の内幕 第四章・残虐きわまる中国軍を糊塗するプロパガンダ大戦略 第五章・日本のアジアに対する崇高な使命感 第六章・パネー号事件と対米プロパガンダ大作戦 第七章・阿片を蔓延させる日本というプロパガンダ 第八章・中国人と日本人を比較する 第九章・チャイナタウンの暗殺団と中国の軍閥 第十章・反日を煽る偽写真 第十一章・ソ連の中国侵略を阻止しようと戦う日本 第一二章・宣教師の善意を利用して日本軍の悪を宣伝する 第一三章・広東と漢口の陥落、そしてその後の展望

わずか160項の薄い本だが、ハラワタが煮えくり返る狂乱の書である。日中戦争当時、あの暗黒大陸で日本人が如何なる目に合っていたか。怒髪天を衝くとはこのことだ。
これは日本側に立って宣伝工作(というほどの活躍ではなかったと思うが)してくれた米人、Frederic Vincent  Williamsが1938年に米国で刊行した本である。残念ながら可哀想な者が好きな米人は、愛嬌のない日本人よりもシナ人に味方した。日本も外人を雇って、なんとか対外工作を試みてはいたようだが、このwilliamsがいみじくも嘆いているように、日本人は宣伝工作が下手なのだった。
それと対照的なのがシナ人である。
シナ人は絶対に真っ向勝負をしない連中である。計略あるのみ。これが日本人には分からない。武士や騎士のような生き方はシナ人には無縁である。三国志や論語で、シナを尚文の国だの信義に厚い国だの思っている者はすでにシナの術中に嵌っているのだろう。何世紀も前から籠絡されていたわけだ。
中国は平和的な哲学者や学者がいる国だと世界中から思われている。しかしながら事実を言えば、日本がやってくる以前から中国の主なビジネスは戦争だった。中国はかつても今も世界でトップクラスの陸軍国である。中国の大多数の人々が平和を希望していることは疑いない。しかし政治家や軍閥がそうさせないのだ。日本はこれらの政治家や軍閥と戦っているのであって、国民相手ではない。これは我々アメリカや他の国々がよく心に留めておくべきことである。(p108~109,第八章 中国人と日本人を比較する)
しかしこの警告は米国人には届かなかった。連中も籠絡されたのである。
一に計略、二に計略、三にも四にも只管計略あるのみ。四千年に渡る謀略の歴史、それがシナである。
兵法三十六計の第七に曰く、“無中生有”。― 無であるものを有に見せるうちに、本当に有にしてしまうこと。シナ人の常套手段であるが、これを日本人の感覚では、でっちあげと云う。
本書は日本側の宣伝工作として読むべきだという、客観的な“日本人”もいるようである。
“自分は客観的であるなどと考える者は、もう半分酔っぱらっているに違いない”とは、魯迅の言葉だそうだ。客観的なつもりの人間は、堂々と嘘をつく奴には以外に弱いのかも知れない。
戦争を避けようとするなら宣伝工作もするのが当たり前だ。その工作が徹底できなかったか、下手だったということだろう。
序文にこうある。
この本を読む多くの人は、最初は日本側に味方をしていると思うだろう。しかしどれほど多くの本や新聞記事が中国贔屓で反日であるだろうか。しかもそういうものを「これは中国の味方をしている」とは言わないのだ。我々は日本に関するものよりも、中国に関して見聞きするものを疑いなく事実として認識する傾向がある。実際問題として、この国には中国のプロパガンダが氾濫している。そして日本を弁護するものをほとんど見ないのである。(p10)
今の米国世論はどうであろうか。Netを通してシナの実態に気づいてきた者も少なからずいるだろうが、肝腎なのは議員どもである。こいつらがまたしても籠絡されていては、歴史は繰り返すに違いない。
日本人が世界に出てきて、西洋人のゲームのやり方を学んでせいぜい八十年である。彼らは実に見事にやった。ついでに言っておくが、何とかしてもらいたいものだ。なぜなら彼らはほとんど信用されていない。昔の先生の際限のない敵意を獲得したからだ。この数え切れないプロパガンダと日本への憎しみの背後にあるのは、日本があまりに早く彼らのレッスンを終了してしまったことに腹を立てている国々のジェラシーである。(p75,第五章 日本のアジアに対する崇高な使命感)
これでは、本書は当時の米国では売れなかったろう。反感を買いこそすれ、共感をえる事はなかったに違いない。米人にしてみりゃ、嫌なとこを突かれた感じだろう。問題は今である。今も日本人に対する印象は、それほど変わっていないのではないかと思えてならない。
特に、資本主義や民主制に懐疑的になっている連中、この手の奴らはシナに幻想を持つ傾向が強いと見える。
それにしても、本書に記述されている当時の様相は凄まじい。日本人がどれほど凄まじい殺戮と強奪の餌食となっていたか。
私が住んでいた北支の百五十マイル以内のところに、二百名の男女、子供たちがすんでいたが、共産主義者によって殺された。二十名はほんの子供のような少女だった。家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。
日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供らの虐殺は、古代から現代を見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは一九三七年七月二十九日の明け方から始った。そして一日中続いた。(p33,第二章 西安事件と頻発する日本人虐殺事件)
とてもじゃないがこれ以上の引用はできない。精神が狂乱する。結局のところ、シナ四千年だが五千年だが知らんが、その悠久の歴史が生んだものは、匪賊としてしか存在しえない阿Qであったわけだ。
中国政府云々という言葉を聞くが、よくよく読んでいると、この当時政府などと云えるような組織なんぞシナにはなかったというのが真相だろう。国民党にしろ共産党にしろ、単なる匪賊にすぎないのだ。そして、どっち側に付いたほうが得なのか、趨勢を見誤らないように立場をころころ変えるその他の人民の群れ。国家としての体裁などシナにはなかったのだとオレは見ている。

幻想はいまだに続いている。この匪賊が支配してきた謀略の国を最大の市場と見て、欲に目が眩んでいる連中。そして、尚文の国だの文化大恩の国だの、クソ寝ボケたことを抜かす連中。

馬鹿も・や・す・み・や・す・み・云え!

2011年7月12日 (火)

科学とオカルト

Isbn4569604439 科学とオカルト
際限なき「コントロール願望」のゆくえ

池田清彦:著

PHP新書,1998

読後感:☆☆

 【19世紀、錬金術などの秘術でしかなかった<オカルト> は「再現可能性」と「客観性」という二つの公共性を獲得して<科学>になった。そして今、科学は極端に難解化して普通の人には理解不能となる一方、現代オカルトは「かけがえのない私」探しの魅力的なアイテムとなった。科学で説明できることとできないことは何か? 科学で得られない「答え」はオカルトによって得られるのか? 人はなぜオカルトに走るのか?】

 【目次】 ●第1章 科学の起源とオカルト ●第2章 オカルトから科学へ ●第3章 科学の高度化とタコツボ化 ●第4章 科学が説明できること説明できないこと ●第5章 心の科学とオカルト ●第6章 現代社会とオカルト ●第7章 科学とオカルトのゆくえ。

正しく生きるとはどういうことか」は面白かった。これも読みやすくなかなか面白かったのだが、科学に対する先入観が自分は強いのだろうか、読みやすい本=浅い、と思ってしまう傾向がある。読みにくい本は、読み手に理解させる気るのかよ?、と文句たれるくせに、その逆の本には有り難味を感じにくいというずうずうしい読者なのである。

 さて、科学とはなんぞやという話である。著者曰く、「科学とはオカルトの嫡子」であり、「オカルトが大衆化したことから生じた」のだとのこと。

 ならば、そのオカルトの大衆化とはどのようにしてなされたか。「再現可能性」と「客観性」という二つの公共性を獲得して『科学』となったのであるという認識である。

 第Ⅰ章では<科学の起源とオカルト>について説いているが、「科学とオカルトの区分」は思っているほど簡単ではないとし、「私がさしあたって区分けをするとすれば、「オカルトは公共性を持たない信念体系であり、科学は多少とも公共性を持つ理論である」(p22)と、さしあたって定義している。

 この定義からすると、宗教は「公共性を持たない信念体系」ということになるか。一応、その信仰を持つ集団内部では常識であっても、“公共性”を持つとは云い難い。

 それではオカルト=邪、なのかというと、著者はかならずしもそのような使い方はしていない。オカルトとは“隠されたこと”の意であるという。

たとえば、錬金術には卑金属を金に変える「哲学者の石」や「錬金薬液」といったものがあるが、これらのものがいかなる手法により生成できるかについて、万人に分かるように書かれたマニュアルはない。これらは、秘法であって、ほんのわずかの選ばれた者にしか会得できないのである。これらは文字通りオカルト(隠されたこと)なのである。確かに錬金術は経験と実践を重視し、その意味では近代科学に連なる側面を有していた。しかし、その理論は実証可能なようには作られておらず、はっきり言えば、錬金術の理論と実践は実質的な関係を持っていなかったように思われる。(p28)

 

 秘術、奥義、秘伝。この手のものはオカルトってことになるのか。釈尊は全ての弟子に等しく法を説いたとされる。何も隠したものはないという趣旨のことも佛伝にあったはず。

 そう考えると、仏教は本来“オカルト性”を持たない思想と云えるのではないか。否、宗教とすら云い難いのかもしれない。仏教をBuddhismと呼ぶのも、ism(主義)としか云えない思想だからか。絶対者を認めるのが宗教だというのが、一神教徒の論理であるのだろう。

 ちなみに、ismって善い意味ではないらしい。神に額ずく連中は仏教徒を見下しているのかね。

そんな仏教も「瞑想」から「祈り」へ転換したあたりから、宗教色が強くなってきた感があるが、その辺の考察は本書の内容から外れるので措いておこう。

科学とは「再現可能性」と「客観性」にあるとするが、では「客観」とはなにか。

本当のことを言えば、客観が主観と独立だなんてことはない。もちろん、自然は我々人間の存在を抜きにしても存在することは間違いあるまい。だから、自然そのものを客観であると考えれば、客観は我々の存在と独立に存在する。しかし、そんな客観では、いかなる公共性も持ち得ない。なぜならば、公共性を持つためには他人に伝達する必要があり、伝達するためにはとりあえず記述する必要があるからだ。記述するのは、個々の主観である。だから、公共性を持った客観が主観から独立しているということはあり得ないのだ。 

 科学論文にはありのままの事実が書いてあると思っている人が多いけれども、実はここにあるのは事実ではなく記述である。たとえば、科学者がある実験をしたとする。ありのままの事実であるならば、実験をビデオに撮ってみんなに見せればよい。しかし、そんなものは科学者仲間から決して業績とは認められないだろう。科学論文と認められるためには、実験から有意味であると科学者仲間が認めるものを選びとって記述しなければならないのである。だから科学における客観的記述と称するものは事実そのものではない。(p56,第Ⅱ章 オカルトから科学へ)

 

「記述」と「事実」は違う。「学説」と「真理」は違う。そして科学は再現可能性のない「一回性」の現象を説明できないとする。

しかし人間は解らないという状態になじめないのか、なんとしてもその現象を結論付けたい。ここにカルトが侵入してくる契機があると云えるかもしれない。

 

「一回性」の現象を説明できず、「私」の存在が何故あるかを説明できない科学に満たされないとき、なんとなく解った気にさせてくれるものに引かれていくのも人情ってやつか。

 

現代社会では「かけがいのない私」探しに夢中になっている人を救済する制度はどこにもない。それは、現代社会のしくみが悪いせいではなく、原理的な話である。制度はどんなものであれ、「かけがえのある個人」を前提としてしか成立しない。どんな福祉事業も、いかなるカウンセリングもセラピーも、制度として構想されている限りは、一定のマニュアルに従った処方箋しか出せない。最終的には自分の生き方を自分で決定して自分で納得しない限り、「かけがいのない私」探しが終了することはない。(p171,第Ⅶ章 カルトとオカルト)

 

かけがいのない私など見つからんってわけだ。なぜならそんな者は最初から存在しないから。人は皆、「かけがえのある私」でしかない。淋しい話でもそれが現実だなぁ、と思うしかないやね。

カルトとオカルトの定義が不鮮明とも思うが、知的な探求を徹底してやりたい向きには相応の書物を当れば良い。科学的とかオカルト的とかを考える入り口にはなっていると思う。

2011年7月 9日 (土)

アホでマヌケなマイケル・ムーア

 アホでマヌケなマイケル・ムーア

 アホでマヌケなマイケル・ムーア

 David T. Hardy、 Jason Clarke:編著

  • 白夜書房 (2004/9/11)
  • 読後感:☆☆
  •   

     【時代の寵児か? 偽善者か?
    映画『華氏911』でブッシュ再選阻止を企む
    マイケル・ムーアの虚実を暴く
    全米ベストセラー!

     日本にも熱狂的ファンを持つマイケル・ムーア氏ですが、映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』や著書『アホでマヌケなアメリカ白人』で話題になる前の経歴は、あまり知られていません。本書では、『ボウリング……』以前のムーア氏の言動や作品について調べ上げ、そのダメダメな過去を白日の下に晒します。
     また、ムーア氏の映画では、メッセージを強く主張するために事実の前後関係を歪めたり、あからさまな「ヤラセ」撮影が行なわれたりと、通常のドキュメンタリー映画の作法から逸脱したシーンが多く見られます。本書では、具体的な場面を挙げながら、その手法を詳細に分析・批判しています。
     今回の日本語版では、巻頭にデーブ・スペクター氏が特別寄稿。日本の読者に向けて、「マイケル・ムーアのなにが問題なのか」「メディアの発する偏った情報に踊らされないためにはどうすべきか」などを語り、マイケル・ムーア・ブームに警鐘を鳴らしています。】

     マイケル・ムーアの名を知ったのは、「ボウリング・フォー・コロンバイン」が話題になってたころだったか。その頃オレはどっちかっていうと反米だったな。なんとなく好かんなアメ公はって感じか。今だって親米ってわけでもないが、アメリカに対する見かたが若干変わってきたのは、「リベラルたちの背信」を読んでからかな。

     

     ムーアのことは、これを読んで分かったとは云えない。ムーアの撮った作品を観てないもんで、ここでいちいち取り上げている作品の内容についても「へ~、」「そうなん?」、くらいの感想しかない。ムーアが素晴らしいにしろ、その逆にしろ、この御仁の撮ったものを観てない以上評価しにくいわけだ。

     元から興味の涌かなかった人物で、むしろ、環境保護活動家的な胡散臭さも感じていたんで、TVででも放送してくれりゃ別だが、あえて映画館まで行こうとまでは思わなかったのだ。

     じゃ、いったいなんでそんな興味もない人物のことを書いた本を読んだかっていうと、アメリカ人でありながらアメリカをこき下ろす彼と、日本人でありながら日本をこき下ろす連中がダブったせいだ。

     たく云うと、こいつも結局のところ“アカ”なんじゃねえの?って思ったってこと。

     予想通りってとこか。少なくとも本書を読むかぎりでは“アカ”だな。

     

     成功している白人を嫌悪することから、マイカー所有者への敵意、福祉国家に関する議論をすべてスウェーデンの話に帰着させる才能、そして資本主義はいつも金持ちが得れば貧しい者が失うゼロサム・ゲームだという意見など、左翼の偏見のすべてを支持する彼の手法は、ほとんど美しいといっていいくらいだ。(p94,アメリカ左翼はふくれっ面の大男に降伏)

     ムーアのやり方について、ここで指摘されている問題点は何かっていうと、要は「画像の切り貼り」による印象操作が甚だしいということである。

     つまり、君は“NHK”か?、ってわけさw

     例えば「ボウリング・フォー・コロンバイン」では、NRA(全米ライフル協会)の集会で演説する、チャールトン・へストンの映像を切り貼りして見せたという。

     この場面におけるムーアのでっちあげを、あたりさわりのない表現で言い表すことはとてもできない。全くの嘘、詐欺行為としか言いようがない。観客を欺くには膨大な編集作業を要したはずだ。実はここで、ムーアはヘストンの演説のそれぞれ5か所から7つの文を引っ張ってきて、そればかりかまったく別の演説からも一部分切り取って、これらひとつひとつをつなぎ合わせたのだ。スピーチを聞く聴衆の静止画像やビデオ画像などを挿入しながら、編集箇所は巧みに処理されているのである。

     まず、涙を流す犠牲者の姿を見せてから、その直後にヘストンの言葉が入る。「これだけは言える。死んで手が冷たくなるまで、この銃を放さない」と。まるで犠牲者達に向けて発せられた言葉であるかのように。

     そして、ムーアのナレーションと共に広告板の画像が挿入される。これは絶対必要条件だ。そうしなければ、ヘストンの実際のデンバーでのスピーチへ移ることができないのだから。このトリックなしでは、スピーチの途中なのにヘストンはなぜラベンダー色のシャツと紫色のネクタイから、白シャツと赤ネクタイに着替えたんだろう、と観客が疑問に思ってしまう。しかも、背景もくり色から青色に変わっている。画像挿入によって一時的に観客の目を逸らすことで、これら2つの画像を組み合わせたわけだ。(p105~106,『ボウリング・フォー・コロンバイン』の真実を求めて)

     NHKが「JAPANデビュー」でやったのと似てないかい?

     

     9・11関連でもぞくぞく出てくるんだなこれが。ビン・ラディン一族とブッシュ一族が同じ投資会社カーライル・グループに投資していたことから、裏で繋がっているという例の陰謀論だ。

     残念ながら、カーライルと関わっているのはブッシュ一族とビン・ラディン一族だけではない。両者に加え、投資家のジョージ・ソロスまでもが投資に仲間入りしているのである。ソロスはやはり大富豪の融資家で、今は極左の反ブッシュ団体「ムーブ・オン(moveon.org)」(インターネット上の政治活動サイト)に資金を供給しており、その結果、この団体は2004年大統領選挙選において、民主党のソフト・マネー(議員ではなく政党に対して贈られる政治献金)調達の面でほぼ主導権を握り、巨額の資金を集めている。(p237,華氏666:それは真実がみるみる歪められていく温度)

     

     興味深い裏話がてんこ盛りで☆3つ付けたい気もするが、いかんせんこの著者たちのこともムーアと同じくらい知らんので、ひょっとしたらムーアと同じ手法で欺かれているかもしれんと一応、警戒しておいての☆2つ。

     とは云いつつも、本音はやっぱりこの本を信じてるけどね。どうも左巻きな連中は好きになれんのだわ。もっともらしい理屈と修辞で素朴な人間を欺こうとしてないか。最近本当に世界市民面した奴らに対する嫌悪感が強くなってきたな。

     

     ついでに云っておくと、ブッシュ政権の酷いところを指摘するのはいいが、クリントン政権の8年間の尻拭いをさせられている面もあるってことは認識しておいた方がいい。

      

      

     

     

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