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2011年7月12日 (火)

科学とオカルト

Isbn4569604439 科学とオカルト
際限なき「コントロール願望」のゆくえ

池田清彦:著

PHP新書,1998

読後感:☆☆

 【19世紀、錬金術などの秘術でしかなかった<オカルト> は「再現可能性」と「客観性」という二つの公共性を獲得して<科学>になった。そして今、科学は極端に難解化して普通の人には理解不能となる一方、現代オカルトは「かけがえのない私」探しの魅力的なアイテムとなった。科学で説明できることとできないことは何か? 科学で得られない「答え」はオカルトによって得られるのか? 人はなぜオカルトに走るのか?】

 【目次】 ●第1章 科学の起源とオカルト ●第2章 オカルトから科学へ ●第3章 科学の高度化とタコツボ化 ●第4章 科学が説明できること説明できないこと ●第5章 心の科学とオカルト ●第6章 現代社会とオカルト ●第7章 科学とオカルトのゆくえ。

正しく生きるとはどういうことか」は面白かった。これも読みやすくなかなか面白かったのだが、科学に対する先入観が自分は強いのだろうか、読みやすい本=浅い、と思ってしまう傾向がある。読みにくい本は、読み手に理解させる気るのかよ?、と文句たれるくせに、その逆の本には有り難味を感じにくいというずうずうしい読者なのである。

 さて、科学とはなんぞやという話である。著者曰く、「科学とはオカルトの嫡子」であり、「オカルトが大衆化したことから生じた」のだとのこと。

 ならば、そのオカルトの大衆化とはどのようにしてなされたか。「再現可能性」と「客観性」という二つの公共性を獲得して『科学』となったのであるという認識である。

 第Ⅰ章では<科学の起源とオカルト>について説いているが、「科学とオカルトの区分」は思っているほど簡単ではないとし、「私がさしあたって区分けをするとすれば、「オカルトは公共性を持たない信念体系であり、科学は多少とも公共性を持つ理論である」(p22)と、さしあたって定義している。

 この定義からすると、宗教は「公共性を持たない信念体系」ということになるか。一応、その信仰を持つ集団内部では常識であっても、“公共性”を持つとは云い難い。

 それではオカルト=邪、なのかというと、著者はかならずしもそのような使い方はしていない。オカルトとは“隠されたこと”の意であるという。

たとえば、錬金術には卑金属を金に変える「哲学者の石」や「錬金薬液」といったものがあるが、これらのものがいかなる手法により生成できるかについて、万人に分かるように書かれたマニュアルはない。これらは、秘法であって、ほんのわずかの選ばれた者にしか会得できないのである。これらは文字通りオカルト(隠されたこと)なのである。確かに錬金術は経験と実践を重視し、その意味では近代科学に連なる側面を有していた。しかし、その理論は実証可能なようには作られておらず、はっきり言えば、錬金術の理論と実践は実質的な関係を持っていなかったように思われる。(p28)

 

 秘術、奥義、秘伝。この手のものはオカルトってことになるのか。釈尊は全ての弟子に等しく法を説いたとされる。何も隠したものはないという趣旨のことも佛伝にあったはず。

 そう考えると、仏教は本来“オカルト性”を持たない思想と云えるのではないか。否、宗教とすら云い難いのかもしれない。仏教をBuddhismと呼ぶのも、ism(主義)としか云えない思想だからか。絶対者を認めるのが宗教だというのが、一神教徒の論理であるのだろう。

 ちなみに、ismって善い意味ではないらしい。神に額ずく連中は仏教徒を見下しているのかね。

そんな仏教も「瞑想」から「祈り」へ転換したあたりから、宗教色が強くなってきた感があるが、その辺の考察は本書の内容から外れるので措いておこう。

科学とは「再現可能性」と「客観性」にあるとするが、では「客観」とはなにか。

本当のことを言えば、客観が主観と独立だなんてことはない。もちろん、自然は我々人間の存在を抜きにしても存在することは間違いあるまい。だから、自然そのものを客観であると考えれば、客観は我々の存在と独立に存在する。しかし、そんな客観では、いかなる公共性も持ち得ない。なぜならば、公共性を持つためには他人に伝達する必要があり、伝達するためにはとりあえず記述する必要があるからだ。記述するのは、個々の主観である。だから、公共性を持った客観が主観から独立しているということはあり得ないのだ。 

 科学論文にはありのままの事実が書いてあると思っている人が多いけれども、実はここにあるのは事実ではなく記述である。たとえば、科学者がある実験をしたとする。ありのままの事実であるならば、実験をビデオに撮ってみんなに見せればよい。しかし、そんなものは科学者仲間から決して業績とは認められないだろう。科学論文と認められるためには、実験から有意味であると科学者仲間が認めるものを選びとって記述しなければならないのである。だから科学における客観的記述と称するものは事実そのものではない。(p56,第Ⅱ章 オカルトから科学へ)

 

「記述」と「事実」は違う。「学説」と「真理」は違う。そして科学は再現可能性のない「一回性」の現象を説明できないとする。

しかし人間は解らないという状態になじめないのか、なんとしてもその現象を結論付けたい。ここにカルトが侵入してくる契機があると云えるかもしれない。

 

「一回性」の現象を説明できず、「私」の存在が何故あるかを説明できない科学に満たされないとき、なんとなく解った気にさせてくれるものに引かれていくのも人情ってやつか。

 

現代社会では「かけがいのない私」探しに夢中になっている人を救済する制度はどこにもない。それは、現代社会のしくみが悪いせいではなく、原理的な話である。制度はどんなものであれ、「かけがえのある個人」を前提としてしか成立しない。どんな福祉事業も、いかなるカウンセリングもセラピーも、制度として構想されている限りは、一定のマニュアルに従った処方箋しか出せない。最終的には自分の生き方を自分で決定して自分で納得しない限り、「かけがいのない私」探しが終了することはない。(p171,第Ⅶ章 カルトとオカルト)

 

かけがいのない私など見つからんってわけだ。なぜならそんな者は最初から存在しないから。人は皆、「かけがえのある私」でしかない。淋しい話でもそれが現実だなぁ、と思うしかないやね。

カルトとオカルトの定義が不鮮明とも思うが、知的な探求を徹底してやりたい向きには相応の書物を当れば良い。科学的とかオカルト的とかを考える入り口にはなっていると思う。

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