« 2015年3月 | トップページ | 2016年5月 »

2015年4月

2015年4月20日 (月)

第75回 皐月賞観戦記

 久しぶりの中山競馬場での観戦である。やはり競馬の醍醐味は現場で勝負するに限る。途中から弱い雨も降り出した。これが各馬、各騎手にどう影響するだろうかなどといろいろ考え、自分の馬券戦略を錬るのである。馬券の買い方にはその人となりが反映されるのである。どの馬を選ぶかからはじまり、単勝、複勝、または連勝系で勝負をするかという、券種の選択も迫られるのだ。そこに人物が出てしまうのである! 高い配当を狙うのなら、当然、人気のない(oddsの低い)馬を狙わなければならない。人気になる馬というのはそれなりの理由がある。血統が良い。近走の成績が良い。腕の良い騎手が乗っているなどなど。しかし、そういう馬をいくら買っても配当に妙味がない。それに、raceの展開によっては勝ちきれないこともあるのだから、こういう皆が本命視している馬を買い続けていると己の資金が底をつくはめになるのだ。だから勝ちたい(高い配当を得たい)ために穴狙いになっていくのである。

 オレがこの皐月賞で狙った馬は1枠1番のブライトエンブレムであった。ネオユニヴァース産駒で前走の弥生賞を2着しているのだが、その時の勝ち馬がこの皐月賞で1番人気になっていたサトノクラウンである。着差0.2秒である。これだけの差で、しかも上がり3ハロン(1ハロンは200m)がmember最速35.2秒である! 曲がり通過順も1コーナーから4コーナーまで10番手で通過していてコンマ2秒差の2着。最終コーナーから8頭抜き去っての惜敗であったのである! それだけの馬が、この皐月賞でなんと6番人気である。1番人気のサトノクラウンに惜しい負け方だった馬があまりに軽視されていたのである。

 穴党大歓喜! これでodds10倍以上つくなら美味しすぎるというもの。こうなったら下手に連勝式馬券など買う必要はない。相手がsetでなければ外してしまう馬券である。当然的中ならば儲けものであるが、軸が定まっているのに相手が付いてきてくれないために泪を飲んだことがどれほどあったか! ここは欲を抑えてただ一頭の馬に全身全霊の想いを込めるべき!

 狙いは定まった。単勝(1着の馬を当てる)一点勝負である。もちろん1番ブライトエンブレムだ。騎手は田辺裕信。この男、人気薄の時こそ強い。おそらく後ろに控えて距離ロスのない内を通ってくるだろう、そして大外強襲、一気に他馬をごぼう抜きの図がオレの脳裏に展開した。2番人気のリアルスティールもたしかに怖い。これは皐月賞優勝馬を近年よく輩出するスプリングステークスを前走つかってきて、キタサンブラック(馬主はサブちゃん)に着差0秒の2着している馬である。ここ数年、このスプリングステークスを勝った馬と、共同通信杯を勝った馬が、1年交代で皐月賞を勝っていることも注目である。嫌なdataである。しかしなんといっても前走をこの皐月賞と同じ courseを走っていて妙味もある1番ブライトエンブレムでオレの腹は決まった。

 ・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

 当日の中山競馬場は、やはり座れる席などなかった。開門ダッシュ組がほとんどの席を占めたのだろう。しかしraceが始まればどうせ立ち見である。オレはさっさと馬券を買ってゴール前に陣取った。あとはただraceの始まるのを待つのみである。下手にpaddockなど見に行ってしまえば、自分の場所に戻ってはこれなくなる。それくらい人が多い。競馬人気が落ちているとはいってもさすがG1raceである。

 そして始まった。G1の時間である。ホースマンたちの夢、クラッシック1冠目のここを目指して使われてきた馬たちの晴れ舞台である。

 ここで競馬場の巨大ターフビジョンにG1の気分を煽る映像がながれる! すでにこの時点でオレの涙腺は緩んでいる。走る為に生まれてきた馬たち。やがて母のもとをはなれ....やめろ!泣く!

 さらにミルコ・デムーロである。小屋での輪乗りからgateへ向かうときに、ちょっとドゥラメンテが行きたがらない素振りを見せたのだが、デムーロが馬の首筋を撫でながら、なにか話しかけているようにターフビジョンに映し出されたのだった。さらにオレの涙腺は緩んだ。もはや買った馬券のことなどどうでもよい気がしてきていた。ただ、素晴らしいraceを!、である。さらにさらにである。観客の誰かが「怪我しないで廻ってこいよ」なんて声を張り上げているではないか! これ以上泣かせるな!

 そしてgateは開かれた。raceは是非とも動画で確認していただきたい。いまは便利な時代で、Internetですぐに映像が見られる。オレの夢、ブライトエンブレムは中団からの競馬となった。前走指して届かなかったことにやはり学んで、無理のない位置につけてきた。直線に望みをかけるが前を捉えきれないようであった。もはや無理かとは思いながらも絶叫させてもらった。

 た~~~~~~~~なべ~~~~~~!!!差せ~~~~~~~!!!!!!!!

 が、差したのは別の馬であった。2番のドゥラメンテである。馬場の真ん中を突いて抜けてきた。その末脚(すえあし)や見事であった。リアルスティールがハナ(先頭)に立ち、逃げたクラリティスカイ、キタサンブラックと競り合っているところを、次元の違う末脚ですっ飛んできたのである。

 しびれた。そしてrace映像がターフビジョンに映し出されて、後方から一気に抜け出してきたドゥラメンテの走りと、デムーロ騎手がどうやって馬群をさばいて彼を勝たせたのかを見た瞬間、オレの身体に電流のようなものが走った。「おおおおおおおう」というどよめきが起きた。競馬場が揺れたような気さえした。それくらいの勝ち方であった。結果的には、デムーロ騎手はこの「斜行」が裁定委員の逆鱗にふれたらしく、数週間騎乗停止処分となったようであるが。

 あの斜行がなかったら他の馬にも勝てる見込みはあったのか? こればっかりは分からない。場合によては他馬を巻き込んでの事故にもなりかねない騎乗ではあるだろう。だが、日本人騎手もこういう競り合いが世界基準としてあたりまえということは知っておいたほうがいい気がするし、JRAも裁定基準は世界基準に合わせないと、日本のホースマンたちの夢である、凱旋門賞制覇など遥か遠くのままになってしまわないだろうかと思ったしだいである。

 兎に角、人は凄いものを見てしまったときは震えるのだ。震える日本ダービーを期待している。


  

2015年4月18日 (土)

ゼームス坂から幽霊坂

 ゼームス坂から幽霊坂 吉村 達也:著, 双葉社 (2000  読後感:☆☆

61ezgxfa03l_sy344_bo1204203200_ 【嵐の夜に自殺した妻を庭に埋めて隠した夫。霊として蘇った彼女と愛の復活は果たせるか?ホラーを超えた感動の結末。】        

  これもまた余韻の強烈に残る物語であった。粗を探せばいくらでもある。なにしろ、死んだ妻の“復活”の原因が“雷”による転写作用だというのだから苦笑してしまう。これは本書のなかで登場人物が云う科白なのだが、おそらく著者は、“カミナリ”=“神なり”という着想が浮かんでしまったので、なんとかこれを小説にしてみたくなったのではないのかと思う。  

 しかしオレからしたらそんな“オチ”はいらないのになぁ、と云いたくなるのだ。所詮、死んだ人間が復活するなんてことは、どんな理屈を並べてみても納得などさせられるものではないではないか? どうしたって無理筋な話であるのだから、そこの説明によって物語を中断させる必要もない。カフカの「変身」のように、何事もなかったかのように日常が流れていく風景を読まされるのも戸惑うが、これはSFでも怪奇でもなく、愛の物語としてオレは読んだのだから。  
 

 ある大雨の降る夜に死んだひとりの女性。人間離れした美貌を持つこの女性は他人には理解しがたい悲しみを持っているのだった。それは夫にも知られていない過去の記憶である。本当なら自分が死んでいるはずだった。最愛のひとが自分を庇って犠牲になった。許されるはずのない愛の終わりは壮絶であった。

 こういう過去を持つ女性であるがゆえに、いつも憂いを帯びている。他人からは、美しい妻を持って幸せな男だと羨まれる夫ではあったが、彼は自分の妻に何か云い難い不満を感じていた。それはそうだろう。彼女のなかには今でも“最愛のひと”がいるのだから。そしてこの妻は“自分は死なねばならない”と決めている女性なのであるから。

 

 こころに入り込める余地のない人を愛するのは辛いことだなと思うし、そう考えるとこの夫も可哀想な男ではあるなと同情もしたくなる。それくらい、妻の最愛のひとと正反対の男として描かれているのだから。

 死ぬと決めているのに何故結婚したのかとか、どうにもやるせない気持ちにさせられる。にもかかわらず、何故☆ふたつつけるか。

 

 それは、彼女と最愛のひととの別れの場面の壮絶さに、しばし頁をめくる手が止まってしまったからである。悲しすぎた。夫となったひとと、そのひととの間に生まれたひとり子を、この地上に残してでも、そのひとのもとへ行きたい、行かねばならないというこの想い。

 残酷なまでの愛。 彼女を見送る夫と子。なんとも云えない複雑な想いに胸が締め付けられる小説であった。

2015年4月15日 (水)

あした、世界のどこかで

Photo

 

あした、世界のどこかで 井出 勉(著) 出版社: 小学館 (2004  
読後感:☆☆☆  


 【テロと憎しみの大地に茅生えた国境なき愛。 長年人道支援のためのNGO活動を手がけてきた著者が初めて書き下ろした現代史ドラマです。かつて戦場という極限状況を舞台に描かれた小説作品は数限りなくありますが、現代日本が体験する“戦争の時代”とはNGO活動に代表される人道支援活動といっても過言ではありません。昨今のイラク、アフガニスタン、ボスニア等、“平和惚け日本”からはうかがい知れないような苛酷な現場に数々の日本人男女が支援活動にあたっております。本書は、そのような人道支援活動にたずさわる男と女の愛と再生の物語です。憎しみの連鎖を断ち切るために今必要なものは何か、を問いかける恋愛長篇。】

 これは9年前くらいに読んだ小説なのだが、非常に余韻の残る作品であった。余韻が残るというのが自分にとって重要な評価pointである。

 自分はNGOの活動とかvolunteerとかやったことがないから、その内部の事はよくわからなかいし(資金の流れなど)、ちょっと胡散臭さい感じが拭えないのが正直なところではある。これを読んでまず例のIraq人質事件の3名の事が浮かんでしまった。あの3名には当時も今も、極左的匂いを感じて良い印象がないのだが。

 NGOをやっている人に、自分が感じていた胡散臭さの正体はなんだったのかと考えてみる。まず、「良いことをする為にわざわざ海外に行かなければならないのか?」という下衆な感情ではあったのだ。身近な人たちから救いの手を差し伸べるのではいけないのか?、海外へ出たら、大きなことをしている気になれるからか?、とか。身近な人に手を差し伸べるなどと、自分でもやっていないことをと苦笑してしまうが。

 この小説でも読み始めはその感情の「モヤモヤ」は拭えないものがあった。何もしないで、戦火から遠くはなれた地で、漠然といまを生きている自分を批難されているような感じを味わわないわけにはいかない。たとえそこに自己犠牲に伴う自己陶酔があったとしても、他者から見て偽善であったとしても、何もしないよりも一段上の生き方なのではないか?、と自問自答する。

 これは恋愛小説だ。ただし、べたついた恋愛ではない。見つめ合う愛ではない。同じ方向を向いている愛だ。互いの背中を預けあえる愛。

 いままで読んだ小説のなかで、これほど深い愛の言葉と出会ったことはない。

 

 昨日見た星のようにお互い遠く離ていても、他人から見たら一つの星座の形をしているような夫婦になれればいいわ。p291

 人間は夜空に浮かぶ星ぼしを見上げてそこに形をみた。星のひとつひとつは遥か遠くに離れていて、地球から見ると距離もまったく違う。それがひとつの塊として見えて星座ができた。物理的に傍にいるだけが愛ではないということを理解した硬派な愛の感情。

 旅立つ母を見送る小さな子どもたちの姿に熱いものがこみ上げる。

 「おかあさん」とシャフィーカの声がした。振り返ると、幸三がにこにこしながら支える玄関のドアの奥の壁に安奈とシャフィーカが並んで逆立ちをして送ってくれた。p372

 この子たちが逆立ちして地球を支えてくれていると受け止める母である。これを読んで、家族を放り出して人道援助とは笑わせると感じるか否か。親の背中を見て子は育つとするならば、遠く離れていても一つの星座の形をしている家族愛であると自分は感じた。

 

2015年4月 8日 (水)

オイディプス症候群

オイディプス症候群  笠井潔:著  出版社: 光文社(2002 読後感:☆                            

Photo                                                     【探偵小説の原点「矢吹駆」シリーズ、待望の最新作!エーゲ海に浮かぶミノタウロス島。不思議な建造物ダイダロス館に集まった十人の男女は、ギリシア神話をなぞった装飾を施されながら次々と殺害されていく…。カケルが示唆する孤島の連続殺人の「本質直観」とは…。】

矢吹駆連作にのめり込むきっかけとなった作品。この連作の5作目である。

まず読後感としての結論を云ってしまうと、これは反則ではないのかということがひとつ。そして長い。物語の構成として、必要ない記述が多すぎると感じた。

ひとつ目の感想だが、探偵小説というからには謎解きを楽しむ事が第一に目的としてあるはずである。それに登場人物たちの個性が「立っていれば」尚良い。登場人物で云えば、この連作の主役というべき矢吹駆である。この男は謎に包まれている(本書から読み始めたため)。謎多き男というだけで、引き込まれる要素にはなる。が、この男、ほとんど陰に隠れて姿を見せないのである。謎解きを他者に譲りわたしているわけだが、それを引き受けているのが、ナディアという女性だ。科白の多さでいったら完全にこちらが主役と云っていい。それでこのナディアやら、他の人物らが、互いに疑心暗鬼になりながら、「このなかの誰が」犯人なのかと推理をし合うわけである。ところが、ここに難点があって、なにしろこの連作の主役は矢吹駆であるということになっているわけだから、最終的に謎を解いてみせるのはこの男なんだろうと思って読むことになるわけだ。つまり、ナディアらの推理は「違う」と感じつつ、長~い物語を付き合うことになるのである。勿論、こちらも読み手として推理しながら付き合っていくのだが、こちらの期待としては、それなりの役柄(科白の多さなど含め)を与えられている主要な登場人物のなかから、真犯人がでてきてほしいのである。「こいつか!」と、著者にしてやられた感を味合わせてほしいのである。

「反則ではないのかこれは?」と云いたくなる真相である。これでは3つ星は付けられない。この犯人が明らかになった時の拍子抜け感から思うに、著者の狙い(おそらくこの連作そのものの)は、哲学談義、あるいは論理的ということについて語るべき方法として、推理小説という形式を選んだだけなのかもしれない。評論という形式でこれをやればもっと短く語れたように思うが。

それと、矢吹駆の推理を、「現象学的推理」としているのだが、これと他の人の推理との違いが明確に分からないのである。あるひとつの事実に対する解釈は無数にありえるとし、その無数に許されている解釈の中から真実を探り当てるのは現象学的本質直感という事なのだが、これを際立たせることができていないのではないかと。これができなければ著者の試みは成功したとは云えないだろうと思う。すくなくとも自分には、この違いが伝わらなかった。最終的に明らかになるのだが、連続殺人のきっかけを与える事になってしまった“manicureの色”を、“血の色”と勘違い(複数の解釈を許す事象にたいして)したうえに、さらにその現象を“神の啓示”と解釈してしまったことによるもの、と語られることで、著者の云わんとしている事の片鱗が見えたかなとは思う。

自分としては、推理の展開よりも、序盤と最後の駆とナディアの哲学談義が印象に残っているという始末である。人を殺す事の是非を問うナディアは、“殺人は「してはならない」という立場”をとるのにたいして、駆は“倫理は『殺してはならない』というところになんかない。たんに殺さない、たんに殺せないという事実が、倫理的なるものの根底にはある。『してはならない』という当為から出発する倫理は最終的にはグロテスクな倒錯に行き着く”と云う。この科白だけでも読む値はあったし、なにより、もう少しこの著者に付き合ってみるかという気にはさせられたのであった。

2015年4月 6日 (月)

テロマネーを封鎖せよ

テロマネーを封鎖せよ

ジョン・B・テイラー(著, 中谷 和男(訳 日経BP社(2007

Photo_2


読後感:△
【世界を舞台にした米国の金融戦略の全貌。】
 >「9.11以降の国際金融を語るのにジョン・テイラー以上の適任者はいない。→経済学者にして財務省次官となって米国金融政策を指揮した。これを読むまでこの人物を知らなかった。
 “わたしにはひとつの管理哲学があるが、それでは部下に「なに」をすべきかを命じることが重要であって、「どのように」すべきかを指示する必要はない、というものである。p21”→欧米流の組織は仕事が早いように見えるのは、部下の裁量に任せるところにあるのかもしれない。つまり報連相にこだわらないことか。報連相はある意味上司にとって「逃げ」る余裕を与えるのではないか。失敗したときの責任を被りそうな件に関して、決断をさらに上に委ねて保身をはかる。結果、行動が著しく遅い。もしも最適な行動であっても“機を逸する”ことになる。部下も育たないし創造的な人間には物足りなさを感じさせるetc
 >読者はこの巧みな書物で、政治、安全保障、グローバルな金融がいかに重なり合い、 交差し合っているかを知るだろう」→巧みな書物かどうかはよくわからない。オレには読みにくかった。ただ、こういうものを読むと陰謀論の幼さが分かる。全知全能の神よろしく、特定の組織、一族などがあらゆる人々の利害を超越して、思い通りに世界を動かせていると考えるのは現実的に無理があると思えてきた。
>「テロリズムとの戦争は様々な戦線で戦うことになる。その一つの分野が金融である」。ジョージ・ブッシュ大統領のこの言葉を受け、「テロリスト資産タスクフォース」が立ち上がる。国際テロネットワークの資産凍結部隊である。→国家同士の潰し合いと違い、ゲリラ的に攻撃を仕掛けてくるterrorismにたいしては、missile落としとけば消滅させられるものでもない。活動資金を絶つことにつきるということ。ISとの戦いもこれが肝となるのだろう。「テロ行為の資金調達を妨害し阻止する」には、“国連決議よりも各国の財務相との直接接触のほうが効果的p40”なのだという。
 >9.11以降に米国が主導した、アフガンでの財政政策、イラクの金融安定化プロセス、アルゼンチンの破綻処理、世銀・IMF改革における各国との駆け引き等々の事情。→おもしろかったところといえば、おフランスが、事あるごとに米国の方針と対立したがる件である。米国に主導権をとられることが兎に角気に入らないようである。おフランスは兎に角気位ばかり高くて、駄目駄目な印象が強くなっていくな。だいたい、戦勝国でもないくせになんであんなに態度でかいんだ?第一次大戦後のことでこんなはなしもある。
 “ケインズは第一次大戦を終結させるためのベルサイユ条約の交渉に参加していたが、この条約がドイツ経済に大きな負担をかけることがわかって、彼は嫌気がさして辞めてしまった。フランスが自分の望む目的を達成するために、いかに連合国内の交渉を利用したかを、ケインズは指摘”p332 とある。おフランス式交渉術の特徴は、最終的に妥協案で収まることを想定して、最初に思い切った条件を提示したうえで、なるべく相手側に多くの妥協を強いるようにするようである。さすがおフランス。
 >とりわけ日本の読者には、“失われた10年”末期の日本の通貨政策(大規模介入)をめぐる黒田・溝口両財務官との応酬の様が興味深いはずであり、今なお続く、変動相場への移行をめぐる周・中国人民銀行総裁との具体的なやり取りも明らかにされている。→日本の財務次官は金融政策で市場介入する際は、America側にいちいち報告しているらしい。さすがポチ。シナは固定相場制から変動相場制に移行しようとしない。Americaの罠だとでも思っているのだろうか。孫子の国だけに。
 IMFや世銀の改革etc、ほとんどすべて米国主導(牛耳ってる)ように云われがちではあるが、実際は各国から面倒な役割を押し付けられているようだ。Americaも唯一の超大国としてそれを引き受けざるを得ないとあきらめているようでもある。

« 2015年3月 | トップページ | 2016年5月 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ