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2018年1月

2018年1月19日 (金)

100万遍唱題という囚われからの解放

100万遍唱題行を8年続けてきたが、昨年ついに途切れた。
何を祈っていたのでもなく、ただ、長く題目を唱えるほうがいい気がしていただけのことだった。
100万遍唱題表なるものを売っている創価系商いの影響かもしれないが、一度達成すると、それを続けていきたくなるのも人情であろう。
ほんとう、まったくそれだけのことであった。
祈りの回数や時間など問題ではないとおもうようになってきたのも、親鸞の「信」の捉え方に関心が向かっているせいでもある。
以前から、こうしなければ、ああしなければ、といった信心の仕方に納得いっていなかったのだ。所詮は組織の論理にすぎまいと。
私の親鸞理解は、吉本隆明の影響が強いのだが、吉本曰く「親鸞は〈信〉がないところで、易しい行いにしたがうことが、どんなに難しいかを洞察したはじめての思想家であった。易しい行い、楽な姿勢が容易だというのはつまらぬ思想にしかすぎない。」 教理上の親鸞より
これは衝撃的であった。この思想は革命的だ。易行に耐えられるのは寧ろ「信」の強さだというのだから。
一見すると、単なる自己肯定にしかならないようにおもえるかもしれない。惰弱な自己を変革することが信仰であろうとの主張もあろう。
が、よく考えてみると、ひとは内心の不安を払えないと、なにかをせずにはいられないものではないだろうか。じっとしていられず、御利益のあるといわれることに、手当たり次第に手をだしてしまうひとは多いのではないか。
そのひとは、そのどれをも本気で信じ切れていないのだ。
では、ひとつの信仰に定まっているひとはどうか。
そういうひとでも、こうしなければ、ああしなければ、これをやらねば、あれをやらねば、と多くの「行」に囚われているのではないか。
だが、多くの「行」を乗り越えねばならないような仏教思想は、小乗ではないのか。
大乗が乗り越えようとしてきたものがそれではなかったのか。
 

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