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2018年3月

2018年3月 2日 (金)

善悪の彼岸へ

善悪の彼岸へ
宮内 勝典(著)  ☆☆
若者たちは、なぜオウムに走ったのか。いま、世界に不気味な明るい闇が拡がっている。人間の未来を問い続ける著者が、オウムの教義を徹底検証、論破する。】

2000年に出版され、書店でみかけては気になっていたものの、なかなか読み始めることができないでいた本である。 全体的に暗い気持ちになる内容だが、オウムが起こした事件を思想の次元で解明しようとういう真摯な試みである。

あの事件後、オウムの実態が徐々に明かされていったとき、ただの新興宗教と思っていた集団がテロリスト集団と化していたことに世間は驚愕した。

私とてこの連中をただの狂信者たちと思っていたものの、まさかこれほど武装化を進めていたとはおもいもしていなかった。

信者たちには学歴選良が多かったということも世間を驚かせた。一般的に云って、知性は狂信を退けるはずだからである。
いい大学をでて、いい仕事に就き、いい家庭を築く。平凡だが安定した、特に不自由のない生活を理想とする大衆の現像を基盤とした戦後日本の歩みが、かれらの暴走によって否定されたような衝撃を受けたといってもよいだろう。

ショックを与えたことのひとつは、教祖の醜さである。あんな汚いおとこの下に集わせるほどに、戦後日本社会は希望がなかったのかと。

この現実社会から引き離すほどの“美”が、麻原のつくりだしたコミュニティからは、なにもみえてこない。宗教建築の荘厳さも、かれらのサティアンと呼ばれる建物からはかんじられない。麻原彰晃の暗い頭蓋(p82) のような、ただの倉庫とでもいうべき建築物。

“美”がないならば“真”はあったか。かれらの得た体験とはどのようなものなのか。そしてそれは、本当に特別な“至高の”体験と云えるのか。

上祐史浩が瞑想によって得たという体験を受けて、宮内は云う。

ヨーガや座禅をやっていると、そんな光や虹の色彩を知覚することがたびたびある。自分が空中に浮かんでいるとしか思えず、ちょっと怖くなって、あたりを見回すことだってある。だが上祐自身が語るように「瞬間的」な知覚にすぎない。一種のランナーズハイのようなものだ。p103

やはりこの程度だろうな、と思う。この手の体験ならスポーツなどでも起こりえることだろう。肉体の酷使により、脳が快楽物質をだす現象だ。本来、ただそれだけのことに過ぎないはずだが、宗教的装いをとると、なにか至高の体験を得たように思ってしまうのではないか。

ヒマラヤの麓のシヴァナンダ・アシュラムにいた頃、多くのヨガ行者たちを見てきた。彼らに共通しているのは外界への無関心、他者への無関心です。自分の肉体・意識の超越性にしか興味がない。(p307)

瞑想するためには静けさが必要であろう。他人に煩わされる俗世から離れるしかないということになる。

宮内は離人症的傾向をオウム信者にみている。この世の人生に現実感(充足感)を持たないが故に、破壊行為に罪の意識を持たないのだ。むしろ本来のあるべき姿をもたらそうというのだから、破壊こそ善であるという逆立ちした認識に至る。

だが、麻原のビジョンにどれほどの理想があったろうか。これを読んでも、やはりそれはみえてこない。創造のための破壊でなく、ただ、破壊のための破壊である。そこに理想主義はない。むしろ虚無である。美も真もなく、逆立ちした善があるだけだ。


ところで、麻原彰晃こと松本智津夫は、幼少より弱視であったことが知られる。これ自体の影響もさることながら、かれの両親は、盲学校にいれたほうが教育費が安く済むという理由で、かんぜんに盲目であるふりをするように強いたという。
たしかにこの体験の影響は大きかったかもしれない。宮内は、麻原は幼少期の屈辱を引きずり、瞋りを増幅させていったのではないかともいう。弟子に高学歴な若者たちを集めているのも、自身の劣等感のあらわれではないかともみえる。

時代は変われど人間の本質は変わらないに違いない。孤独と無力感に耐えられる人間ばかりではない。世俗の価値観に空しさを覚えるひとびとの受け皿がないとしたら、どうなるか。

オウムの問題は、これからボディブローのように長く尾を引くだろう(p306) という宮内のことばが重い。かれはオウム事件の本質を、日本型ニヒリズムにみているのである。

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