2017年10月29日 (日)

「弱者」とはだれか

「弱者」とはだれか (PHP新書)   小浜 逸郎   1999/8/4

 【「弱者に優しい政治を」「差別のない明るい社会を」といった、だれも異議を唱えることのできないスローガン。しかし、現代社会における「弱者」とは、ほんとうはどういう存在なのだろうか?本書では、障害者、部落差別、マスコミの表現規制など、日常生活で体験するマイノリティの問題について、私たちが感じる「言いにくさ」や「遠慮」の構造を率直に解きおこしていく。だれもが担う固有の弱者性を自覚し、人と人との開かれた関係を築くための考え方を「実感から立ちのぼる言葉」で問う真摯な論考。】
 
 例によって小浜逸郎である。小浜節全開で胸焼けしそうになるほどだ。 小浜の著作を好んで読む人でも、これはかなり飲み下すのがきつい部類になるのではないだろうか。 「云い難いことを云ってやる」の精神で、身障者から部落差別に在日差別問題まで、バッサバッサと切りまくる。 保守にとってはこの上なく胸のつかえのとれる、快哉を叫びたくなる本であろう。逆にリベラルには読み通せないに違いない。
 
 小浜曰く、 “同じ言葉を使い同じ生活の空気を吸っているこの日本で、どのようにこの主題が受け止められているかに限って、議論を進めたいと思う。” p11
 
とのことで、よその国の話は置いといて、まず我が国の現状について語ろうじゃないかという姿勢である。 それはいいとして、まず小浜の現実認識であるが、 「同じ生活の空気を吸っているこの日本」 と述べている点について、はたして同意できるかである。同じ生活とは何か? 生活レベルの違いがそれぞれの人生にあることは明白である。小浜が「同じ生活の空気」と云うとき、その定義が分からないため、自分を「弱者」と認識している人にとっては、この前提から受け入れられないかもしれない。
 
 小浜は、いまの社会が「弱者」への配慮が行き過ぎて、逆差別現象が起きているのではないかという問題意識から本書を上梓したのであろうが、この辺も「弱者」を自認する側から異論が起きることだろう。なにしろ、まだまだ公共の場に於いてさえ、バリアフリー化が不十分と云われる国だけに。
 
 言葉狩りにも触れていて、「弱者」への過剰な配慮が耐えがたいらしいのはよく分かった。ところで、小浜は、外国人が“なんの悪気もなしに”日本人のことをJAPと云っていたら気にならないのだろうか? 結局のところ、自分がそのカテゴリーに居ない自覚があることに関しては、他人事としか思えないのが人間だろ?、と開き直っているだけにも思える。
 
 
 なかには筆が走り過ぎたのか、ただのバカでは?、とさえ思ってしまう意見もある。駅のホームの転落防止用ドアにまで難癖つけてしまっている。盲人には点字ブロックがあるのだからこれ以上の配慮はいらない。自殺するやつはほかの方法でも自殺する。転落するほど酔っぱらっている奴や不注意で落ちる奴は自己責任であり、何故高いコストをかけてまであんな目障りな物を作らなければならないのかと。小浜は割と好きな物書きであったが、さすがに頭を心配してしまう。ホームの転落防止ドアは、たとえコストは掛かっても、転落による人身事故から発生する被害にくらべたらましであろう。それでいて、駅のエレベーターのことは「良い施設」だと云っている。おいおい、健常者でも利用できるエレベーターは良い施設って。
 
 しまいには、ブスやハゲといった身体的なコンプレックスも、本人がそれを気にしているからには、社会的に認知されない「弱者」と云えるだろう、誰しもある側面を見れば弱点を持っているので「弱者問題」は相対的な問題に「過ぎない」と云うのである。だから差別意識とか声高に云わず、もっと寛容になろうよと云いたいらしいのだが、要求されている寛容さの度合いが違い過ぎるのではないか。健常者の方はせいぜい、云いたいことが云い難いという程度の「精神的苦痛」ですむはなしであろうが。
 
 “自由の拡大には、それを喜ぶ人もいるかわりに、逆に重荷と感ずる人も増えるという事態が伴う。人は、どんな「理想社会」を夢見ることも可能だが、どの社会にも、その社会なりのコストが伴うことを覚悟しなければならない。” p212 
言葉狩りが気に入らないらしいが、この「自由の拡大」を表現の自由と考えた場合どう考えるのか。
 
 ここまでずっと否定的に感想を綴ってきたが、まったく論外として突き放すわけにもいかない「毒」をこの本は持っている。たとえば、出生前診断についてである。これは今のところ肯定的に受け入れられているようだが、それは産まれてくる子が障害を持っているかどうか、気にしている親たちが現実に多いことを意味しているからではないか。そして、わが子が障害を持って出生することがかなりの確率で分かったとき、「障害も個性」と云えるだろうか。実際は、産まない決断をするひとたちが多いと考えられる。だとすれば、産まない決断をすることは「差別」であり「蔑視」にあたるのであろうか。
 
 小浜の毒舌はこちらの痛いところを突いてくる。建前は建前として、誰しも差別意識を持っているので、小浜の言葉によってそこを炙りだされるのだ。この本の「読み難さ」の原因はそこにある。
 
 
 
 
 
 

2017年8月13日 (日)

ネアンデルタールの悩み

ネアンデルタールの悩み―進化心理学が明かす人類誕生の謎   ウィリアム オールマン :著, 青山出版社 1996/10
[サルはなぜ、ヒトになったのか。そして、なぜヒトになれなかったサルがいるのか。この、永遠の謎に対する史上初めての鮮やかな回答が、本書である。著者は、「心」こそ人類進化の源であると言う。そして、その心に刺激を与えたのは、ストレス、悩みなのだ。人類史の先兵として華々しく登場しながら、ついに主役たりえなかったネアンデルタール。彼らは悩みを知らなかった。それこそが、悩みのタネだったのである。 ]

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 これは、進化心理学という学問分野からの視点で人類誕生の謎に迫った本であって、これによってその謎の解明がなされたとは云えない。本格的な学術書ではなく、軽い読み物である。オレはこれを暇つぶしに(潰すべき暇が多すぎて困るのだが)流し読みしただけである。読みだしたら止まらないというほどではないので△で。
 
人類の進化は闘争によるというより、「協力」によるという考えは意外であった。道具を使いこなす能力には、現代人と大した違いはないというネアンデルタール人なのに、何故かの人々は歴史から消えたのかと云えば、「相互関係を基本とした社会構造」を築けなかったためだという。この複雑な他者との相互関係こそが、人類の脳の肥大化をもたらしたとみるのが、進化心理学だそうだ。
 道具を使うことでも、二足歩行でもなく(決定的な理由でない)複雑な人間関係を処理していくことによって互いの腹を探り合い、互いを「社交場の道具」とし、give-and-takeで社会を進歩させていったということなのだと。  
 
 お人よしが勝つなんていうあたり、現代人の、特に複雑な国家関係に於いてどこまで参考になるか疑問ではあるが...  4万年前に突然訪れた爆発的といってよい人類の進化に、もっと興味は沸いてきた。  
 

2017年3月24日 (金)

テロマネー アルカイダの資金ネットワークを追って

 テロ・マネー アルカイダの資金ネットワークを追って                                 単行本                                                                                                                                                                                  – 2004/9/22
読後感:☆                            
 テロリズムのための資金源はいったいどこにあるのか? その答えのひとつはテロとは逆のことに使われるはずの慈善事業への寄付金である。この辺のからくりは、「テロリストハンター」にも詳しい(この二冊、ついでに「テロマネーを封鎖せよ」も併せて読まれたい)。慈善事業への寄付は申告もなく使途を問わないとすれば、その筋からしたら資金洗浄のために存在するschemeと云っても云い過ぎではない。本当に純粋に寄付している者にとっては、とんだとばっちりである。
 さらには、アラブ・イスラム圏の出稼ぎ労働者による母国への送金。ダイヤモンドや金塊に変えて運ばれる。現金の移動は捕捉されやすいが、物に変えて運ばれると追えないという利点があるためだ。
 インドとかアラブ圏で銀行システムに変わって利用されることがある、「ハワラ」なる地下金融システムもマネーロンダリングの温床である。しかし、それが分かっていても、その流れを完全に断つことはできない。人種差別等の難しい問題も絡んでくるためだ。
 ダイヤモンドは所謂ブラッドダイヤモンド(血に汚れたダイヤ)というもの。東アフリカのシエラレオネ。この国は近代国家としての体をなしていない。ヤクザに支配されているようなものらしい。ここでの悲惨な鉱山労働によって掘り出されたダイヤが、それと知らずに美しいものの象徴として、憧れをもって買われていくとはおぞましい話しである。 
 
 
 ビン・ラディンは、一九九六年にタリバンによってアフガニスタンに隠れ家を提供されると、金融ネットワークの基盤を固めるため、その人脈をフルに活用して資金集めに奔走した。そして数年のうちに、アルカイダの資金網は西アフリカのダイヤモンド鉱山からアラブ首長国連邦(UAE)の金市場まで、あるいはパキスタンの金融業者からワシントンの郊外にまで広がった。資金源と政治を融合させることによって、アルカイダは他に比類を見ないテロ組織となったのである。(序 pp.9-10)
 
 アルカイダの資金管理の責任者ムスタファ・アーメド・アルハウサウィと、もう一人、フェエズ・バニハマドが、二〇〇一年六月二十三日に香港のスタンダード・チャータード銀行のドバイ支店に口座を開いたことがわかっている。アルハウサウィはビジネスマンだと自称してサウジアラビアのパスポートを提示し、自分の口座用に二枚のデビット・カードの発行を求めた。バニハマドは二日後にフロリダに行っている。彼は後にワールド・トレード・センタービルに突入したハイジャック犯の一人である。(同 p.10)
 婚約指輪に好んで使われ、西アフリカで大量に採れる高品質のダイヤモンドが、いかにアルカイダの重要な資金源になっているかをつきとめた。(序 p.13)
 グローバリゼーションに伴う規制緩和の巧みな利用法をテロリストたちがよく理解している(同)
 
 ダイヤモンドなどの商品を手に入れたアルカイダは、西側の銀行から離れ、サウジアラビアはドバイ、カラチ、ラホールなど、中東はインドの金融商人に向かう。好意的で商売上手でもある金商人や宝石バイヤーのネットワークを通じて、また「ハワラ」と呼ばれる、ブローカーを通して資金を動かすアラブやアジアの伝統的な地下金融システムを利用して、アルカイダは現金を商品に、そして商品を現金にとかえていくのである。現金が武器弾薬、テレビ、衛星電話などに形を変えることもある。あるいは金に変わることもある。商品としての金は現金ほど政府の監視が厳しくないのだ。現金が物や商品に変わると、それらはハワラのシステムのなかに入る。実際には現金がまったく動かないことも多い。かわりに、簡単な電子メールや電話がハワラの仲間内でやりとりされるだけで、何の記録も残さずに数十万ドル規模の資金の所有者が変わるのだ。(同 pp.15-16)
 
 一九九六年にアフガニスタンを制圧したタリバンにとって、小国ながら裕福なUAEは格好の〝買い物場所″だった。UAEの賑やかなショッピングモールや金市場や免税区域は、タリバンやアルカイダにとっては、薬品類から化学品や衛星電話まで、なんでも調達できるところだった。(第2章 p.58)
 タリバンとアルカイダの資産のかなりの部分がドバイで金塊に替えられ、世界中に分散して送られたこともあった。 金は現金と違ってほとんど申告する必要がないため、流通経路を把握するのが困難だ。(第6章 p.143)
 金は溶かしてよし、製錬してよし、余計な質問なしで口座に預けてもよし、ということでテロリストにとっては格好の資金移動の手段なのだ(同 p.144)
 
 CIAはどれほどの国家予算を得ているのか知らないが、これがお決まりの縄張り争いというのか、手柄争いというのか、FBIなどと連携が取れていない。情報の共有がない。おまけに、自分たちより情報を持っているjournalistの著者を気に入らないのか、妨害じみた真似をしてくるというのである。このような体たらくであるから、9.11が米国の自作自演説にまでなってしまうだとしたら、ちょっと哀れである。  
 
 尚、革命統一戦線(RFU)に資金提供する、レバノン人のナッソウルというダイヤ商人は、トヨタ・ランドクルーザーやらヤマハ・オートバイなども供給していたらしい。ISが何故かトヨタのピックアップトラックに乗っているのが気になっていたが、この人脈が絡んでいるのか気になるところだ。
 
 

2016年7月16日 (土)

悪の論理で世界は動く

〝悪の論理″で世界は動く!

奥山 真司:著

読後感:△

大げさな題目だが、別段、目新しい視点はない。

「WWⅡ後の日本は独立国ではない」 「日本が独立するにはどうするべきか」 主題となっているのはこれだが、日本は独立国とは程遠い状態にあるのが事実として、独立すれば今よりもこの国がよくなると考え得る根拠がない。

地政学的に云って日本が取りうる選択肢は、独立かこのまま米国追従、最悪Chinaの属国と、この三択しかないという(ロシアとの関係を築くという選択肢はないようである)。

常識的に云うと米国追従だが、相対的に米国の覇権が低下している情況では(本当に米国の国力が弱まっていると云えるのかは疑問だが)日本も共倒れになる。

落ち目の合衆国を支え続ける負担に日本が耐えられるかという問題。 かといって日米同盟を止めればChinaの属国という、云わば脅しではある。

日米関係には「同盟」があり得るのに、日中関係には「同盟」はなく、あるのは「Chinaの属国」だけというのも保守論壇に共通の見解だ。民主化されていないChinaとでは、まともな関係は望めないと考えるのも仕方ないか。

一番、日本人として理想なのは、真の「独立」なのだろうと思うのだが、国防という視点を無視できないならば、米国追従よりも負担が増すだけという見方もある。

しかも合衆国としては、日本に原爆投下という負い目もあるだろうから、日本が同盟を捨てるとなったら、当然仮想敵国として想定するようにもなるだろう。 世界一の軍事力を持つ合衆国と、それに追いつけとばかり軍事拡張を続けるChinaとの板挟みで、どう「理想てきな独立」ができるかだ。

畢竟、Chinaの民主化を促すしかないだろうが、道遠しである。

私の現在の認識では、「この道しかない」と米国を支え続ける姿勢をとっているのが一番愚かしいと思っている。 どっちつかずの態度で双方を焦らしつつ、双方から最大の利益を引き出すという手を使うのが一番政治的には利口ではないかと思うのだが、それをやれるほどの政治力があれば苦労はしないか。

ともあれ、改憲勢力が政権を取っているうえに、それが米国追従となれば、合衆国の負担軽減のための手を打つのだろう。創価学会が政権にいる限りなんでもやれるだろう。

無党派層は政治に期待していないのだろうが、投票しないということは、日本の行く末を創価に委ねるということであることを認識したほうがよい。

2016年5月 9日 (月)

自己を救えぬ者は他者を救えないか

 吉本隆明 著、「言葉という思想」において、長年もやもやしてたことに少し答えがでた気がした。

 「喩としての聖書」という章において、吉本は、聖書が思想書として優れていると感じることを語っているのだが、そのなかでイエスを吊し上げた者たちがこう云うわけだ。

 「お前はいままで、病んだ人を救った。奇跡を起こしてみせた。ならば今の自分(十字架に張り付けられた)くらい救えないのか。それができるならお前を信じてやるぞ」

 このような難詰をイエスにするわけだ。 同じだ。日蓮が一門が受けることになる誹謗もまたこのようなものである。 お前ね、自分をよく見ろよ、と。自分がそんなに立派な人間なの?、と。 こう返されると何も云えませんよ。

 他人を救いたいと(これが救いなのだと)想いがあっても、あなたのその言葉が相手に素直に届きはしないのだ。たいていの場合そうだ。他人は自分と比較して「幸せそうに見えるか」「尊敬に値するか」そこで判断するだろう。理屈重視で考え、受け入れるひとなど、ごく稀ではないか。

 だが、そう云っている者も同じなのである。誰もが自分を棚に上げているのだ。他人に偉そうに云える立場でないのは、元も子もない云い方をしてしまえば誰も同じなんだと。

 それで、吉本はこう云ってくれた。

 「人間は他人を救うとおなじ次元で、じぶんを救うというようにはできていません。」 虐げられたとか、惨めな目にあったとか、そういうことも大したことではないんだと。    そうだろう、みな、もって生まれた条件が違うのだ。宿命の質も厚さも違うのだ。じぶんを救えたのと同じようには他人を救えないし、逆も然りじゃないか?

 吉本隆明には与えられることが多い。

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