2017年3月24日 (金)

テロマネー アルカイダの資金ネットワークを追って

 テロ・マネー アルカイダの資金ネットワークを追って                                 単行本                                                                                                                                                                                  – 2004/9/22
読後感:☆                            
 テロリズムのための資金源はいったいどこにあるのか? その答えのひとつはテロとは逆のことに使われるはずの慈善事業への寄付金である。この辺のからくりは、「テロリストハンター」にも詳しい(この二冊、ついでに「テロマネーを封鎖せよ」も併せて読まれたい)。慈善事業への寄付は申告もなく使途を問わないとすれば、その筋からしたら資金洗浄のために存在するschemeと云っても云い過ぎではない。本当に純粋に寄付している者にとっては、とんだとばっちりである。
 さらには、アラブ・イスラム圏の出稼ぎ労働者による母国への送金。ダイヤモンドや金塊に変えて運ばれる。現金の移動は捕捉されやすいが、物に変えて運ばれると追えないという利点があるためだ。
 インドとかアラブ圏で銀行システムに変わって利用されることがある、「ハワラ」なる地下金融システムもマネーロンダリングの温床である。しかし、それが分かっていても、その流れを完全に断つことはできない。人種差別等の難しい問題も絡んでくるためだ。
 ダイヤモンドは所謂ブラッドダイヤモンド(血に汚れたダイヤ)というもの。東アフリカのシエラレオネ。この国は近代国家としての体をなしていない。ヤクザに支配されているようなものらしい。ここでの悲惨な鉱山労働によって掘り出されたダイヤが、それと知らずに美しいものの象徴として、憧れをもって買われていくとはおぞましい話しである。 
 
 
 ビン・ラディンは、一九九六年にタリバンによってアフガニスタンに隠れ家を提供されると、金融ネットワークの基盤を固めるため、その人脈をフルに活用して資金集めに奔走した。そして数年のうちに、アルカイダの資金網は西アフリカのダイヤモンド鉱山からアラブ首長国連邦(UAE)の金市場まで、あるいはパキスタンの金融業者からワシントンの郊外にまで広がった。資金源と政治を融合させることによって、アルカイダは他に比類を見ないテロ組織となったのである。(序 pp.9-10)
 
 アルカイダの資金管理の責任者ムスタファ・アーメド・アルハウサウィと、もう一人、フェエズ・バニハマドが、二〇〇一年六月二十三日に香港のスタンダード・チャータード銀行のドバイ支店に口座を開いたことがわかっている。アルハウサウィはビジネスマンだと自称してサウジアラビアのパスポートを提示し、自分の口座用に二枚のデビット・カードの発行を求めた。バニハマドは二日後にフロリダに行っている。彼は後にワールド・トレード・センタービルに突入したハイジャック犯の一人である。(同 p.10)
 婚約指輪に好んで使われ、西アフリカで大量に採れる高品質のダイヤモンドが、いかにアルカイダの重要な資金源になっているかをつきとめた。(序 p.13)
 グローバリゼーションに伴う規制緩和の巧みな利用法をテロリストたちがよく理解している(同)
 
 ダイヤモンドなどの商品を手に入れたアルカイダは、西側の銀行から離れ、サウジアラビアはドバイ、カラチ、ラホールなど、中東はインドの金融商人に向かう。好意的で商売上手でもある金商人や宝石バイヤーのネットワークを通じて、また「ハワラ」と呼ばれる、ブローカーを通して資金を動かすアラブやアジアの伝統的な地下金融システムを利用して、アルカイダは現金を商品に、そして商品を現金にとかえていくのである。現金が武器弾薬、テレビ、衛星電話などに形を変えることもある。あるいは金に変わることもある。商品としての金は現金ほど政府の監視が厳しくないのだ。現金が物や商品に変わると、それらはハワラのシステムのなかに入る。実際には現金がまったく動かないことも多い。かわりに、簡単な電子メールや電話がハワラの仲間内でやりとりされるだけで、何の記録も残さずに数十万ドル規模の資金の所有者が変わるのだ。(同 pp.15-16)
 
 一九九六年にアフガニスタンを制圧したタリバンにとって、小国ながら裕福なUAEは格好の〝買い物場所″だった。UAEの賑やかなショッピングモールや金市場や免税区域は、タリバンやアルカイダにとっては、薬品類から化学品や衛星電話まで、なんでも調達できるところだった。(第2章 p.58)
 タリバンとアルカイダの資産のかなりの部分がドバイで金塊に替えられ、世界中に分散して送られたこともあった。 金は現金と違ってほとんど申告する必要がないため、流通経路を把握するのが困難だ。(第6章 p.143)
 金は溶かしてよし、製錬してよし、余計な質問なしで口座に預けてもよし、ということでテロリストにとっては格好の資金移動の手段なのだ(同 p.144)
 
 CIAはどれほどの国家予算を得ているのか知らないが、これがお決まりの縄張り争いというのか、手柄争いというのか、FBIなどと連携が取れていない。情報の共有がない。おまけに、自分たちより情報を持っているjournalistの著者を気に入らないのか、妨害じみた真似をしてくるというのである。このような体たらくであるから、9.11が米国の自作自演説にまでなってしまうだとしたら、ちょっと哀れである。  
 
 尚、革命統一戦線(RFU)に資金提供する、レバノン人のナッソウルというダイヤ商人は、トヨタ・ランドクルーザーやらヤマハ・オートバイなども供給していたらしい。ISが何故かトヨタのピックアップトラックに乗っているのが気になっていたが、この人脈が絡んでいるのか気になるところだ。
 
 

2016年7月16日 (土)

悪の論理で世界は動く

〝悪の論理″で世界は動く!

奥山 真司:著

読後感:△

大げさな題目だが、別段、目新しい視点はない。

「WWⅡ後の日本は独立国ではない」 「日本が独立するにはどうするべきか」 主題となっているのはこれだが、日本は独立国とは程遠い状態にあるのが事実として、独立すれば今よりもこの国がよくなると考え得る根拠がない。

地政学的に云って日本が取りうる選択肢は、独立かこのまま米国追従、最悪Chinaの属国と、この三択しかないという(ロシアとの関係を築くという選択肢はないようである)。

常識的に云うと米国追従だが、相対的に米国の覇権が低下している情況では(本当に米国の国力が弱まっていると云えるのかは疑問だが)日本も共倒れになる。

落ち目の合衆国を支え続ける負担に日本が耐えられるかという問題。 かといって日米同盟を止めればChinaの属国という、云わば脅しではある。

日米関係には「同盟」があり得るのに、日中関係には「同盟」はなく、あるのは「Chinaの属国」だけというのも保守論壇に共通の見解だ。民主化されていないChinaとでは、まともな関係は望めないと考えるのも仕方ないか。

一番、日本人として理想なのは、真の「独立」なのだろうと思うのだが、国防という視点を無視できないならば、米国追従よりも負担が増すだけという見方もある。

しかも合衆国としては、日本に原爆投下という負い目もあるだろうから、日本が同盟を捨てるとなったら、当然仮想敵国として想定するようにもなるだろう。 世界一の軍事力を持つ合衆国と、それに追いつけとばかり軍事拡張を続けるChinaとの板挟みで、どう「理想てきな独立」ができるかだ。

畢竟、Chinaの民主化を促すしかないだろうが、道遠しである。

私の現在の認識では、「この道しかない」と米国を支え続ける姿勢をとっているのが一番愚かしいと思っている。 どっちつかずの態度で双方を焦らしつつ、双方から最大の利益を引き出すという手を使うのが一番政治的には利口ではないかと思うのだが、それをやれるほどの政治力があれば苦労はしないか。

ともあれ、改憲勢力が政権を取っているうえに、それが米国追従となれば、合衆国の負担軽減のための手を打つのだろう。創価学会が政権にいる限りなんでもやれるだろう。

無党派層は政治に期待していないのだろうが、投票しないということは、日本の行く末を創価に委ねるということであることを認識したほうがよい。

2016年5月 9日 (月)

自己を救えぬ者は他者を救えないか

 吉本隆明 著、「言葉という思想」において、長年もやもやしてたことに少し答えがでた気がした。

 「喩としての聖書」という章において、吉本は、聖書が思想書として優れていると感じることを語っているのだが、そのなかでイエスを吊し上げた者たちがこう云うわけだ。

 「お前はいままで、病んだ人を救った。奇跡を起こしてみせた。ならば今の自分(十字架に張り付けられた)くらい救えないのか。それができるならお前を信じてやるぞ」

 このような難詰をイエスにするわけだ。 同じだ。日蓮が一門が受けることになる誹謗もまたこのようなものである。 お前ね、自分をよく見ろよ、と。自分がそんなに立派な人間なの?、と。 こう返されると何も云えませんよ。

 他人を救いたいと(これが救いなのだと)想いがあっても、あなたのその言葉が相手に素直に届きはしないのだ。たいていの場合そうだ。他人は自分と比較して「幸せそうに見えるか」「尊敬に値するか」そこで判断するだろう。理屈重視で考え、受け入れるひとなど、ごく稀ではないか。

 だが、そう云っている者も同じなのである。誰もが自分を棚に上げているのだ。他人に偉そうに云える立場でないのは、元も子もない云い方をしてしまえば誰も同じなんだと。

 それで、吉本はこう云ってくれた。

 「人間は他人を救うとおなじ次元で、じぶんを救うというようにはできていません。」 虐げられたとか、惨めな目にあったとか、そういうことも大したことではないんだと。    そうだろう、みな、もって生まれた条件が違うのだ。宿命の質も厚さも違うのだ。じぶんを救えたのと同じようには他人を救えないし、逆も然りじゃないか?

 吉本隆明には与えられることが多い。

2015年4月20日 (月)

第75回 皐月賞観戦記

 久しぶりの中山競馬場での観戦である。やはり競馬の醍醐味は現場で勝負するに限る。途中から弱い雨も降り出した。これが各馬、各騎手にどう影響するだろうかなどといろいろ考え、自分の馬券戦略を錬るのである。馬券の買い方にはその人となりが反映されるのである。どの馬を選ぶかからはじまり、単勝、複勝、または連勝系で勝負をするかという、券種の選択も迫られるのだ。そこに人物が出てしまうのである! 高い配当を狙うのなら、当然、人気のない(oddsの低い)馬を狙わなければならない。人気になる馬というのはそれなりの理由がある。血統が良い。近走の成績が良い。腕の良い騎手が乗っているなどなど。しかし、そういう馬をいくら買っても配当に妙味がない。それに、raceの展開によっては勝ちきれないこともあるのだから、こういう皆が本命視している馬を買い続けていると己の資金が底をつくはめになるのだ。だから勝ちたい(高い配当を得たい)ために穴狙いになっていくのである。

 オレがこの皐月賞で狙った馬は1枠1番のブライトエンブレムであった。ネオユニヴァース産駒で前走の弥生賞を2着しているのだが、その時の勝ち馬がこの皐月賞で1番人気になっていたサトノクラウンである。着差0.2秒である。これだけの差で、しかも上がり3ハロン(1ハロンは200m)がmember最速35.2秒である! 曲がり通過順も1コーナーから4コーナーまで10番手で通過していてコンマ2秒差の2着。最終コーナーから8頭抜き去っての惜敗であったのである! それだけの馬が、この皐月賞でなんと6番人気である。1番人気のサトノクラウンに惜しい負け方だった馬があまりに軽視されていたのである。

 穴党大歓喜! これでodds10倍以上つくなら美味しすぎるというもの。こうなったら下手に連勝式馬券など買う必要はない。相手がsetでなければ外してしまう馬券である。当然的中ならば儲けものであるが、軸が定まっているのに相手が付いてきてくれないために泪を飲んだことがどれほどあったか! ここは欲を抑えてただ一頭の馬に全身全霊の想いを込めるべき!

 狙いは定まった。単勝(1着の馬を当てる)一点勝負である。もちろん1番ブライトエンブレムだ。騎手は田辺裕信。この男、人気薄の時こそ強い。おそらく後ろに控えて距離ロスのない内を通ってくるだろう、そして大外強襲、一気に他馬をごぼう抜きの図がオレの脳裏に展開した。2番人気のリアルスティールもたしかに怖い。これは皐月賞優勝馬を近年よく輩出するスプリングステークスを前走つかってきて、キタサンブラック(馬主はサブちゃん)に着差0秒の2着している馬である。ここ数年、このスプリングステークスを勝った馬と、共同通信杯を勝った馬が、1年交代で皐月賞を勝っていることも注目である。嫌なdataである。しかしなんといっても前走をこの皐月賞と同じ courseを走っていて妙味もある1番ブライトエンブレムでオレの腹は決まった。

 ・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

 当日の中山競馬場は、やはり座れる席などなかった。開門ダッシュ組がほとんどの席を占めたのだろう。しかしraceが始まればどうせ立ち見である。オレはさっさと馬券を買ってゴール前に陣取った。あとはただraceの始まるのを待つのみである。下手にpaddockなど見に行ってしまえば、自分の場所に戻ってはこれなくなる。それくらい人が多い。競馬人気が落ちているとはいってもさすがG1raceである。

 そして始まった。G1の時間である。ホースマンたちの夢、クラッシック1冠目のここを目指して使われてきた馬たちの晴れ舞台である。

 ここで競馬場の巨大ターフビジョンにG1の気分を煽る映像がながれる! すでにこの時点でオレの涙腺は緩んでいる。走る為に生まれてきた馬たち。やがて母のもとをはなれ....やめろ!泣く!

 さらにミルコ・デムーロである。小屋での輪乗りからgateへ向かうときに、ちょっとドゥラメンテが行きたがらない素振りを見せたのだが、デムーロが馬の首筋を撫でながら、なにか話しかけているようにターフビジョンに映し出されたのだった。さらにオレの涙腺は緩んだ。もはや買った馬券のことなどどうでもよい気がしてきていた。ただ、素晴らしいraceを!、である。さらにさらにである。観客の誰かが「怪我しないで廻ってこいよ」なんて声を張り上げているではないか! これ以上泣かせるな!

 そしてgateは開かれた。raceは是非とも動画で確認していただきたい。いまは便利な時代で、Internetですぐに映像が見られる。オレの夢、ブライトエンブレムは中団からの競馬となった。前走指して届かなかったことにやはり学んで、無理のない位置につけてきた。直線に望みをかけるが前を捉えきれないようであった。もはや無理かとは思いながらも絶叫させてもらった。

 た~~~~~~~~なべ~~~~~~!!!差せ~~~~~~~!!!!!!!!

 が、差したのは別の馬であった。2番のドゥラメンテである。馬場の真ん中を突いて抜けてきた。その末脚(すえあし)や見事であった。リアルスティールがハナ(先頭)に立ち、逃げたクラリティスカイ、キタサンブラックと競り合っているところを、次元の違う末脚ですっ飛んできたのである。

 しびれた。そしてrace映像がターフビジョンに映し出されて、後方から一気に抜け出してきたドゥラメンテの走りと、デムーロ騎手がどうやって馬群をさばいて彼を勝たせたのかを見た瞬間、オレの身体に電流のようなものが走った。「おおおおおおおう」というどよめきが起きた。競馬場が揺れたような気さえした。それくらいの勝ち方であった。結果的には、デムーロ騎手はこの「斜行」が裁定委員の逆鱗にふれたらしく、数週間騎乗停止処分となったようであるが。

 あの斜行がなかったら他の馬にも勝てる見込みはあったのか? こればっかりは分からない。場合によては他馬を巻き込んでの事故にもなりかねない騎乗ではあるだろう。だが、日本人騎手もこういう競り合いが世界基準としてあたりまえということは知っておいたほうがいい気がするし、JRAも裁定基準は世界基準に合わせないと、日本のホースマンたちの夢である、凱旋門賞制覇など遥か遠くのままになってしまわないだろうかと思ったしだいである。

 兎に角、人は凄いものを見てしまったときは震えるのだ。震える日本ダービーを期待している。


  

2015年4月18日 (土)

ゼームス坂から幽霊坂

 ゼームス坂から幽霊坂 吉村 達也:著, 双葉社 (2000  読後感:☆☆

61ezgxfa03l_sy344_bo1204203200_ 【嵐の夜に自殺した妻を庭に埋めて隠した夫。霊として蘇った彼女と愛の復活は果たせるか?ホラーを超えた感動の結末。】        

  これもまた余韻の強烈に残る物語であった。粗を探せばいくらでもある。なにしろ、死んだ妻の“復活”の原因が“雷”による転写作用だというのだから苦笑してしまう。これは本書のなかで登場人物が云う科白なのだが、おそらく著者は、“カミナリ”=“神なり”という着想が浮かんでしまったので、なんとかこれを小説にしてみたくなったのではないのかと思う。  

 しかしオレからしたらそんな“オチ”はいらないのになぁ、と云いたくなるのだ。所詮、死んだ人間が復活するなんてことは、どんな理屈を並べてみても納得などさせられるものではないではないか? どうしたって無理筋な話であるのだから、そこの説明によって物語を中断させる必要もない。カフカの「変身」のように、何事もなかったかのように日常が流れていく風景を読まされるのも戸惑うが、これはSFでも怪奇でもなく、愛の物語としてオレは読んだのだから。  
 

 ある大雨の降る夜に死んだひとりの女性。人間離れした美貌を持つこの女性は他人には理解しがたい悲しみを持っているのだった。それは夫にも知られていない過去の記憶である。本当なら自分が死んでいるはずだった。最愛のひとが自分を庇って犠牲になった。許されるはずのない愛の終わりは壮絶であった。

 こういう過去を持つ女性であるがゆえに、いつも憂いを帯びている。他人からは、美しい妻を持って幸せな男だと羨まれる夫ではあったが、彼は自分の妻に何か云い難い不満を感じていた。それはそうだろう。彼女のなかには今でも“最愛のひと”がいるのだから。そしてこの妻は“自分は死なねばならない”と決めている女性なのであるから。

 

 こころに入り込める余地のない人を愛するのは辛いことだなと思うし、そう考えるとこの夫も可哀想な男ではあるなと同情もしたくなる。それくらい、妻の最愛のひとと正反対の男として描かれているのだから。

 死ぬと決めているのに何故結婚したのかとか、どうにもやるせない気持ちにさせられる。にもかかわらず、何故☆ふたつつけるか。

 

 それは、彼女と最愛のひととの別れの場面の壮絶さに、しばし頁をめくる手が止まってしまったからである。悲しすぎた。夫となったひとと、そのひととの間に生まれたひとり子を、この地上に残してでも、そのひとのもとへ行きたい、行かねばならないというこの想い。

 残酷なまでの愛。 彼女を見送る夫と子。なんとも云えない複雑な想いに胸が締め付けられる小説であった。

«あした、世界のどこかで

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