書籍・雑誌:☆☆

2015年4月18日 (土)

ゼームス坂から幽霊坂

 ゼームス坂から幽霊坂 吉村 達也:著, 双葉社 (2000  読後感:☆☆

61ezgxfa03l_sy344_bo1204203200_ 【嵐の夜に自殺した妻を庭に埋めて隠した夫。霊として蘇った彼女と愛の復活は果たせるか?ホラーを超えた感動の結末。】        

  これもまた余韻の強烈に残る物語であった。粗を探せばいくらでもある。なにしろ、死んだ妻の“復活”の原因が“雷”による転写作用だというのだから苦笑してしまう。これは本書のなかで登場人物が云う科白なのだが、おそらく著者は、“カミナリ”=“神なり”という着想が浮かんでしまったので、なんとかこれを小説にしてみたくなったのではないのかと思う。  

 しかしオレからしたらそんな“オチ”はいらないのになぁ、と云いたくなるのだ。所詮、死んだ人間が復活するなんてことは、どんな理屈を並べてみても納得などさせられるものではないではないか? どうしたって無理筋な話であるのだから、そこの説明によって物語を中断させる必要もない。カフカの「変身」のように、何事もなかったかのように日常が流れていく風景を読まされるのも戸惑うが、これはSFでも怪奇でもなく、愛の物語としてオレは読んだのだから。  
 

 ある大雨の降る夜に死んだひとりの女性。人間離れした美貌を持つこの女性は他人には理解しがたい悲しみを持っているのだった。それは夫にも知られていない過去の記憶である。本当なら自分が死んでいるはずだった。最愛のひとが自分を庇って犠牲になった。許されるはずのない愛の終わりは壮絶であった。

 こういう過去を持つ女性であるがゆえに、いつも憂いを帯びている。他人からは、美しい妻を持って幸せな男だと羨まれる夫ではあったが、彼は自分の妻に何か云い難い不満を感じていた。それはそうだろう。彼女のなかには今でも“最愛のひと”がいるのだから。そしてこの妻は“自分は死なねばならない”と決めている女性なのであるから。

 

 こころに入り込める余地のない人を愛するのは辛いことだなと思うし、そう考えるとこの夫も可哀想な男ではあるなと同情もしたくなる。それくらい、妻の最愛のひとと正反対の男として描かれているのだから。

 死ぬと決めているのに何故結婚したのかとか、どうにもやるせない気持ちにさせられる。にもかかわらず、何故☆ふたつつけるか。

 

 それは、彼女と最愛のひととの別れの場面の壮絶さに、しばし頁をめくる手が止まってしまったからである。悲しすぎた。夫となったひとと、そのひととの間に生まれたひとり子を、この地上に残してでも、そのひとのもとへ行きたい、行かねばならないというこの想い。

 残酷なまでの愛。 彼女を見送る夫と子。なんとも云えない複雑な想いに胸が締め付けられる小説であった。

2012年7月 7日 (土)

税金が国家の盛衰を決める

歴史の鉄則―税金が国家の盛衰を決める

51m0dr2kggl渡部 昇一:著

PHP研究所,1993

読後感:☆☆

 【今日の日本の税制は、封建時代の最悪のものより苛酷である。日本は「一律10%」の税率でも充分にやっていけるのではないか…。古今東西の歴史を俯瞰し、「富」と「税金」の問題を本質的に考察する。】

第1章 「国民の富」を保つ歴史の法則―税金が高いとなぜ国家は滅びるのか
第2章 累進課税が日本を滅ぼす―国力粗鬆症を防ぐ税の鉄則
第3章 「潰れっこなし」と考えれば日本は危うい―サッチャー夫人に学ぶ「小さな政府」の作り方
第4章 「配給」を排し、「自由」を育てよ―ハイエク先生に学ぶ民富論
第5章 税率は「一律一割」が鉄則―国民に富があってこそ真の文化が創造できる

 どうやら消費税を上げる気らしい。国民にもっと金を使ってほしいと云いながら、消費することを罰せられているかのような気にさせる、増税。なんだ?、日本は金が足らんのか? そうか、無駄を省く努力をしたうえで、もう限界ですと本当に云ってるのかな?

 国民の態度はどうか。

 国に無駄を省け!公務員を減らし且つ、給料も下げろ!、と威勢はいいものの、自殺や孤立死や、いじめや貧しい人や就職できない人やetc........。なにかあると、国はなにをやってるんだー、行政はなにやってるんだー、と、国の仕事が増えることになる要求をする。

 相反するものを望む政府と国民。

畢竟、国民に自助の精神がなければ個人主義が確立することはなく、そういう国では小さな政府(無駄遣いしない)を求めることはできないのだろうと思えてきた。

 税金について考える時、その前にまず考えなければいけないのは、「富」である。なぜならば、そもそもいちばん大切な問題は、「国民の富と富を創り出す力をいかに涸渇させないで、さらに強めるか」ということだからである。国民から税金を取って、国民のためにサービスする政府の役割は、それだけしかない。(p25,第一章 「国民の富」を保つ歴史の法則)

 

 善意の人たちは富の分配を第一に主張する。が、分配するには、まず、富の創造がなければならないんだ。

 生活保護を打ち切られたことで、不幸にも餓死された方の報道などに接すると、社会福祉の充実は国家の責務であるという気にはなる。しかし、仮に生活保護が支給され続けたならばどうなっていたのかが問題ではなかろうか?、と思うのだ。何故なら、収入がない(足りない)からこそ生活保護を必要としていたわけだから、その先には、これを必要としない生活が待っていなければならない。

 政府が取り組まねばならないのは、生活保護の充実より、何故、生活保護なしでは生きられない人たちが存在するのかを考え、国民が最低限の生活は収入によって得られる社会的仕組みを構築することなんじゃないかと思うのだが、これは素人の浅はかな考えなんだろうか。

 この本の著者は渡部昇一。なんだ右翼の本か、とは云わずに一読してみてはいかが?平成5年の本ではあるが、今日的な意義がある。TPPに絡めて読むこともできるだろう。

 著者は昭和の大恐慌の原因はなんだったかを調べるうちに、米国が成立させた、ある保護政策に行き当たり、これが引き金ではないかと考えるに至った。それは農民を保護するための法律だった。

 しかし、産業界の人間は、この法案がもし通過してしまえば大変なことになる、不景気が来るぞと身構えた。貿易の縮小が予想されるような法案が出れば、「売り」に決まっている。すでに株式相場は加熱状態だったから、警戒感も手伝って株は大きく下げた。それでも「ホーリー・スムート関税法」が通らなければ、景気は下支えされた筈だが、一九三〇年(昭和五)に可決されてしまう。  

 これは、「アメリカがブロック経済をやるぞ」という信号だから、世界中がたちまちこれに反応した。およそ一年間で、世界の貿易量は約半分になってしまうのである。こうした事態に対応して、世界の四分の一の領土を植民地として持っていたイギリスが二年後の一九三二年(昭和七)、カナダのオタワで経済会議を開いて、帝国内の関税を引き下げ、あるいは撤廃し、外国に対しては関税を引き上げるという決定をする。アメリカのブロック化に次いで、世界の四分の一を植民地としていたイギリスがブロック化したのだ。  

 このようにして、大恐慌はたちまち全世界に伝染してしまった。「ホーリー・スムート関税法」は、本来は農民保護のための法律であった筈だが、実際に農民そのものは利益を受けなかった。いや、利益どころか深刻な不況によって大打撃を受けた。ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』は、当時の農民の窮状を見事に描いている。  

 現在、日本のコメの自由化問題や見えざる関税障壁(こちらの方が問題だが)を考えるに当たっても、実によいケース・スタディになる筈である。  

 「持てる国」のアメリカやイギリスといった経済大国がブロック化してしまえば、 「持たざる国」のドイツや日本、イタリアなどは大いに困窮する。最も困ったのは第一次世界大戦に敗れ、苛酷なヴェルサイユ条約(一九一九年)によって、すべての植民地を失っていたドイツで、全労働人口の三分の一が失業、再び復興の道を閉ざされてしまう。当のアメリカだって、働き手の四人に一人が失業してしまい、巨大な政府が出来上がることになるのである。

 かくして一九三〇年の「ホーリー・スムート関税法」成立からたった四年後に、ヒットラー政権が樹立されることになった。(pp53~54,同) 

 これは、保護政策という伝家の宝刀は、無闇に抜いてはならないという歴史の教訓であろう。

 国内には様々な産業がある。その中には、すでに斜陽な産業もある。そういう産業は国家が保護すべきなんだろうか。社会的影響が大きいといって国家が介入し、救うこともあるが、影響ってなにか。失業者がでることか。そりゃ、でるだろう、資本主義だもの。問題は失業することでなくて、再出発しずらい社会であることをどうにかした方が良いと思うんだが。

 出産後の女性が復帰しずらい企業風土とかさ。男が育児休暇取りにくいとかさ。有給使うなんて当たり前の労働者の権利を、行使しずらい陰湿さとかさ。意味不明な男女間の賃金格差とかさ。

 これらのどれくらいまでが、政治の責任かは分からんけれども、挙げればキリないくらいあるよね、この国の異質さって。こういうのって、仕組みの問題なのか、精神構造の問題なのか、どっちを先に変えたら良いのかはっきり云えんけれども、仕組みが変われば、さすがに日本人の精神構造も変わるんじゃないかい?

 まぁ、大変だろ皆んな。オレだって毎年どうなるか分からん暮らしだ。女性は特に酷しいに違いない。

 でも、金持ちからむしり取ればいいだけだなんて惨めなことは、オレでもさすがに云わんな。云いたくない。それ云っちゃ、自分で自分の可能性の芽を絶つことになる気がするから。 

 「一生懸命働いても」って云われても、努力の方向性が間違えていれば金持ちにはなれんよ。労働環境が悪いのであれば、その環境に一生懸命耐えてても暮らしは楽にならんて。耐える努力ではなく、変える努力をしないかぎりは。

 変える努力をしても報われないなら、それがそこの企業風土なのだろう。そんなとこに居ても埒があかん、といって起業できるのがいい社会なのだろうし、それができるからAmericaは強いんじゃないかと思う。

 自由主義社会では、能力のない人間の不満は、間違いなく富の獲得に思うように与れないという場合に起こってくる。だが、機会が均等ならば、能力や努力が基準になって当然なのであるから、「しかたがない、頑張るしかない」ということになる。社会構造を揺さぶるようなことにはならない。

 ところが、富を作る能力のある人間が、どんなに頑張っても富が作れないという状況に置かれると、生産力は停滞する。能力がつまらない部分に浪費されることになる。旧ソ連・東欧では、組織の中、特に政府・共産党のヒエラルキー内での出世が、唯一の楽しみになってしまった。 

 ヒエラルキーを上ろうという努力は、生産能力とは関係がない。物を創造する喜び、自分の好きな物を勝手に作って売る喜びが許されない。それが長く続くと創造性が萎えてしまう。(p66,同)

 金持ちから捕って分配しろって云ってる人って、そういうことを云うこと自体、自分が金持ちになった姿を想像できない人間なんじゃないか。 本当に向上心のある人間であれば、自分が成功した姿を思い描いているだろうし、そうであれば、金持ちであることを罰せられているかのような税制を望むはずがない。

 渡部昇一はHayekに傾倒しているので、税率は一律にすべしと云っている。具体的に一律一割にすべしと。本当の平等とはそういうことだろ、と。

 ただこれには、所得を完璧に捕捉するのは無理だということを考えると、結局、まともに給料から天引きされるサラリーマンが一番損するってことに変わりないのじゃないか?、と思ってしまった。

 まぁ、理論的に可能であったとしても、絶対に実現しそうにない提案だよ。嫉妬社会では絶対無理。

 税金がひどく高くなると、その国を支える骨格が脆くなる。骨からカルシウムが取られすぎると、人間は骨粗鬆症という病気に罹る。それと同じことが国家に起こってくる。国民の私財から税金を取りすぎると国力粗鬆症が起こるのである。(p111,第二章 累進課税が日本を滅ぼす)

 

 国力粗鬆症とは上手いこと云ったな。実際そのとおりだろ。 本書には社会主義的政策を取った国の末路が色々書かれているが、オレが一番面白いと思ったのは最後の「税法十の鉄則」にある。

 “税務署員の大幅な削減を伴わないような税制改革は、すべて悪である。(ベクトルが逆であると言ってもよい)(p251,第五章 税率は一律一割が鉄則)

 なぜならば、税務署員の仕事が多いということは、税金をなんとしてでも逃れたいという人が多いということであり、それはつまり、税制が苛酷であることを意味しているからだ。

 稼ぐことに喜びを感じさせてくれるような国家であれば、金持ちは、こそこそ税金回避に知恵を絞るなんてみみっちい真似はしなくなるだろう。普通は成功者になってまで、こそこそ生きたいなどとは思わないはずだ。そして、金持ちが思い切って金を使える社会、大人の酔狂を許す社会であれば、文化も生まれるかもしれないし、新しいものの創造があるかもしれないのだ。

 夢がない。夢を見れない。そういう国になってしまってないか、この国は。世界二位の経済大国と呼ばれたときですら、「ジャパニーズ・ドリーム」なんて言葉があったか? そういう、夢のない国に我々は生きている。

2012年2月 2日 (木)

インチキな反米主義者、マヌケな親米主義者

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インチキな反米主義者、マヌケな親米主義者

ジャン=フランソワ・ルヴェル著

出版:アスキー・コミュニケーションズ,2003

読後感:☆☆

 【すべてを力でねじ伏せるアメリカの傲慢。すべてをアメリカのせいにする国々の偽善。正しいアメリカとの付き合い方とはなにか? フランスを代表するジャーナリストが、知識人としての名誉をかけて放つ問題作。】

<目次>
序章 「超大国」アメリカと、我々はどう付き合うべきか 第1章 真実から目をそむけるヨーロッパ 第2章 反グローバリズム派の大いなる誤解 第3章 アメリカの「報復」は正当か 第4章 アメリカは、本当に野蛮な国か 第5章 反米主義は「アメリカ依存」につながる 第6章 「ブッシュの戦争」は間違っているか 第7章 世界が作り出したアメリカという虚像 結語 適切な「アメリカ批判」が世界を救う

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 自意識過剰、自尊心強すぎ、な、フランス人が反米主義者の正体を暴く。といっても、ネタはフランス・欧州の反米主義者が中心である。

 結論から云ってしまうと、この著者は欧州がだらしないから米国の力が際立ってしまうのだと云いたいようである。反米主義が、かえって米国を一国主義に走らせてしまうと。

 この著者は正直だと思う。フランス人として、自分が米国に嫉妬していること認めている。ように見える。その嫉妬を反米主義にもっていくのではなく、祖国と欧州に対して、もっとしっかりしろよと、米国のようになってみせろよと、苦言を呈しているのだなと感じた。

 フランスの原題は多分、インチキな反米主義者だと思うのだけど、日本版には何故か「マヌケな親米主義者」という一言も追加されている。これは出版社の意向か? 「インチキな反米主義者」のみでは、ブ左翼に買ってもらえないと思ってのことかもしれない。

  ・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

 さて、この著者、元はブサヨだったらしい。ところが、米国を実際に見て回った結果、対米感情が変わったようである。一人一人の米国人はフランス人よりしっかりとした考えを持ってるぞ、と。

 で、何故これほど反米主義に染まるのかを考察し、“反米主義の不思議は、情報の歪曲ではなく、情報に操作されてもよいという意思が存在するという事実にある。(p15,序章 「超大国アメリカと、我々はどう付き合うべきか)”と述べる。

 例として、朝鮮戦争を、米国主導の韓国が北に攻め込んだことによって始まったという、赤いpropagandaをあっさり信じたこと、9・11以後の米国の対terrorの動きをも、反戦という美名を振りかざして避難する、その裏にある心理はほかでもない、米国が力を行使することに耐えられない、米国が世界の問題を解決することに耐えられない、まぁ、嫉妬だな。そんな心理があるからだと云ってのける。

 なかでもvietnam戦争については、フランスのだらしなさが米国を戦争に引きづり込んだとまで云ってのける。

 ベトナム戦争が激化した1969年を機に反米主義はさらに加熱し、ヨーロッパ(特にフランス)は、見事なほど根拠のない方法で、事実を忘却、もしくは忘れたふりをするようになった。アメリカがベトナムにしかけた戦争は、ヨーロッパ諸国による植民地支配、特にフランスによるインドシナ半島への侵略戦争の副産物にすぎない。フランスは長期にわたる遠隔地の戦争で戦略を大きく誤り、何度もアメリカの援軍を受けていた。敗北を喫したフランスは、1954年ジュネーブ協定に署名し、ベトナム北部は共産党政府の統治となったが、彼らが協定に違反しはじめるまでに時間はかからなかった。盲目となったフランスは、終戦後も植民地解放を拒否し続けた。フランスの政治的、軍事的失策の繰り返しが、のちにアメリカの参戦を余儀なくしたことは明らかである。

 このように戦略地政学的、心理的背景を基盤として、ヨーロッパとアメリカの関係を形作るシナリオができあがった。まず、ヨーロッパは援軍に躊躇するアメリカを無理やり表舞台に駆り出す。ヨーロッパが引き起こした危機を解決するために、 陣頭に立たされたアメリカは、やがて唯一の先導責任者にしたてあげられる。冷戦時がそうであったように、このシナリオが滞りなく進むうちは、ヨーロッパは何の恩義も感じない。ところがベトナム戦争時のように、このシナリオが支障をきたしはじめると、すべての責任をアメリカに押しつけ汚名をかぶせる。(pp15~16,同)

 vietnam戦争については、米国の非道がどうしても批難にさらされるわけだが、それというのも、言論と報道の自由を保証するという、民主制国家の有り様を守ったせいだと云ったのは稲垣 武であった。それに対して、言論や報道の自由なんぞハナから無視していた共産勢力は、記者の同行を認めなかったために、残虐さを報道されずにすんだだけであると。

 そして9・11である。当初こそ米国へ哀悼の意を述べていた諸国も、米国が報復の決意を示すなり反米主義に傾いた。反戦と云う名の反米であったろうことは間違いない。

 最良の解釈をするならば、反米主義者たちはあきれるような寛容さをもって、テロリストと彼らに抵抗する者たちをまったく同等に扱い、どちらの肩も持たないことにしたようだ。このように、何十万人もの平和主義者たちが、2001年10月14日、アメリカやヨーロッパ(特にイタリア)でデモ行進を行なった。旗には≪テロ反対、戦争反対≫と書かれていた。このスローガンを思いついた人の知能レベルは≪病気反対、医者反対≫というのと変わりはない。  彼らにいわせれば、アメリカは復讐という低い志に屈したことになる。この執念深い衝動を満たすために、彼らは理由もなく爆撃に及んだ。もちろんこれによりアフガニスタンの民間人に被害が出るのは必至だった。(p89,第3章 アメリカの「報復」は正当か)

 ≪交渉≫によって解決すべきだったのだ、と。これが欧州に限らず世界の平和主義者の見せた反応であった。

 しかし我々は知っている。民主主義は妥協に応じる知恵を持っているが、血なまぐさい狂信者たちは、常に交渉を拒否するということを。(同)

 残念ながら、日本の平和主義者には未だにそれは分からんようである。対話の成立しない相手がいるということを、想定していない平和主義というわけだ。 握り拳を内に秘めていない対話などには、なんら政治的効力を持ち得ない。 

 世界には、力の行使を躊躇わない独裁者や国家が、まだ存在する。恐らくそれらがなくなることは期待できないだろう。人類が、もう、進歩や発展という願望を捨て去る覚悟を持てるなら、米国の覇権に他の国がとって変わるのも、まぁ、有りかもしれない。しかし、それらを捨て去る気にはなれないというなら、米国はまだましな覇権国と云えるだろう。

 ヨーロッパに「アメリカでは自由の意味が衰退している」などと主張する権利はない。アメリカには≪ファシスト≫の危惧が根強く存在するというが、建国から220年以上経った今も、アメリカは独裁政治のかけらさえ経験したことがない。ヨーロッパがそのような経験のコレクターであるのとは対照的である。(p86,同)

  9・11以降、自由が失われているとか、監視社会化しているとかいう米国論が目立つが、そもそもそんなに米国が酷い国であるなら、なんで世界中から移民が集まるのか。米国籍を捨てようとする人より、それを求める人が後を絶たないのは何故か、ってことになる。

 経済格差が酷く、自由もない国に何故魅了されるのか? 他がもっと酷いからだろうね。現実を素直に見るなら、そうとしか考えられない。

 この傾向は、米国憎しという印象が強い(というか、そういう報道しかされない)、Islam国にも起きているようだ。その辺は、大高美貴も書いていた。音楽、映画、大衆文化などによってアメリカへの印象が変化してきた若者たちの存在こそ、脅威なのだ。 だからこそ、Islam諸国の指導者の米国憎しが強まるのだろう。

 たしかに、≪どこにでもいる≫、いわゆる≪巷の≫イスラム教徒の大半も、反米感情を抱いているという反論があるかもしれない。しかし、イスラム教国家のほとんどは民主主義ではないため、これらの社会において反米主義を掲げるデモのどこまでが自発的で、どこまでが国家権力により組織されたものかを正確に知ることは難しい。 

  アメリカと親交を持つイスラム教国家は、自国の過激派と闘うことを強いられている。そこではイマームが狂信的で外国人排斥を信条とした誓約を立てて大衆を扇動しようとしている。またこれら大衆の識字率は低く、独自に情報を収集する能力を持たない。それでなくても情報は、ラジオやテレビなどのメディアでさえ、極端に制限、遮断されている。(p205,第7章 世界が作り出したアメリカという虚像)

 だからこのような、戒律主義ガッチガチな宗教国家では、米国は自由をもたらしてくれる存在でもあるのだ。そして、その役割を担えない欧州や、若者たちの心を掴まれてしまった宗教国家は、ますます反米感情を募らせることになっていく。

 表向き、国家関係は上手くいってないかに見えるシナと米国でも、シナの大衆の米国感は違ってきているようである。富裕層ほど、米国に移住したがっている。

 言論の自由が制限されているシナ人にとって、米国は、ただ力を振りかざす野蛮な国ではなく、文明の進歩と豊かさをもたらしてくれる魅力ある大国と写っているのだろう。 中共の言論弾圧を喰らった焦国標は、Iraq戦争に際して、思いを詩に託している。

 「ロシアのイワノフ外相は、巡航ミサイル、トマホークが民主主義をもたらすものではないと言った・・・・・・しかしイラクの民主主義はトマホークのビューという飛来音によってもたらされるのだ」

 「あなた(アメリカ兵)が倒れたら、人類は正義の背骨を失うだろう。もしあなたの国が崩壊したら、人類は野蛮で荒廃した中世にまで戻ってしまうだろう」(中央宣伝部を討伐せよ,草思社

 

 欧州は反米感情から、国際問題を解決する際、米国とは違う路線を行きたがる傾向があると、この著者は見ている。独裁者に対しても寛容の精神によって、≪力の行使≫より≪対話≫を、というわけである。勿論、米国とは違う、利権構造を持っているためでもあるのだろうが。

 だが、本当に圧政に苦しんでいる人たちには、この悠長な態度は理解されないかもしれない。 独裁者から解放されたとき、これらの国々の民衆が、欧州に感謝することはないだろうと、著者はいう。自国の不甲斐なさに苛立ちを感じているのだろう。その苛立ちから、過剰に米国擁護をしているように見えなくもないが。

 さて、著者曰く、“今のところアメリカ以外に、世界をもっとましな場所に導いてくれる国はない。”とのことだが、日本は何か世界に貢献できるのだろうか。金を出す以外のことで。

 もし、日本が本気で世界に貢献する気概を持つなら、“金”と“言葉”だけでは切り抜けられない問題があることを認識しなければならないだろう。今のように自衛隊を海外に派遣しても、その自衛隊の保護を他国の軍隊に求めているようでは、まず足でまといにしかならないと思う。

 自国の領土が戦地となり、敗北を味わった経験を持つ日本や欧州が、米国のように振舞うのは無理かもしれない。しかし、米国流を批判するならば、それに代わる道筋を示さなければならない。

 「反戦・平和」というお題目を唱えるだけの日本人には、平和の消費者とはなれても、平和の建設者にはなれそうにない。

 Vietnam戦争を史上最も汚い戦争と見る司馬史観に対し、井尻千男氏は、

 私は逆に、領土的野心があるわけではなく、経済的権益すらほとんどないところで、反共十字軍というたった一つの観念のためによくぞ戦えるものだと感心していた。もちろん当時の「ドミノ理論」からすれば、超大国アメリカの威信と覇権はかかっている。が、それにしてもこれほど「観念的戦争」はない。将兵としては「自由のために死ねるか」と問いつづけねばならない戦争。政治家としては「同胞を守るため」という血の意識を掻き立てるわけにはいかない戦争。しかも冷戦さなかの限定戦争。そのとき日本人はヴェトナム特需にうるおい、米軍のお蔭で自由主義を満喫していた。(共同体を保守再生せよ,秀明出版会と憤っている。

   

2011年11月12日 (土)

雪国

雪国 (新潮文庫 (か-1-1)) 雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

著者:川端 康成
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

読後感:☆☆

 【頑なに無為徒食に生きて来た主人公島村は、半年ぶりに雪深い温泉町を訪ね、芸者になった駒子と再会し、「悲しいほど美しい声」の葉子と出会う。人の世の哀しさと美しさを描いて日本近代小説屈指の名作に数えられる、川端康成の代表作。】

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

 この冒頭部分しか知らなかった名作。小谷野敦はこれのどこが名作なんだ?、と云ってたな。

 けど、オレの心は充分満たしてくれたな。何よりも、この小説の舞台になった越後湯沢温泉へ行ってみたくなった。勿論、上越線で。 

 国境の長い隧道を抜けて景色が一変するってところを見てみたいと思った。

 言葉のやりとりがなんとも美しいね。「みずうみ」は全体に淫靡な匂いがしすぎて気持ち悪かったけど、これはそういうのとは違う、良い余韻があった。

 駒子と島村はその後どうなったのだろうか。

 

“踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。”(p148)

 無為徒食の男と芸者の女。ひとときの逢瀬か。

 なんとしても越後湯沢で再読したい本である。

2011年7月12日 (火)

科学とオカルト

Isbn4569604439 科学とオカルト
際限なき「コントロール願望」のゆくえ

池田清彦:著

PHP新書,1998

読後感:☆☆

 【19世紀、錬金術などの秘術でしかなかった<オカルト> は「再現可能性」と「客観性」という二つの公共性を獲得して<科学>になった。そして今、科学は極端に難解化して普通の人には理解不能となる一方、現代オカルトは「かけがえのない私」探しの魅力的なアイテムとなった。科学で説明できることとできないことは何か? 科学で得られない「答え」はオカルトによって得られるのか? 人はなぜオカルトに走るのか?】

 【目次】 ●第1章 科学の起源とオカルト ●第2章 オカルトから科学へ ●第3章 科学の高度化とタコツボ化 ●第4章 科学が説明できること説明できないこと ●第5章 心の科学とオカルト ●第6章 現代社会とオカルト ●第7章 科学とオカルトのゆくえ。

正しく生きるとはどういうことか」は面白かった。これも読みやすくなかなか面白かったのだが、科学に対する先入観が自分は強いのだろうか、読みやすい本=浅い、と思ってしまう傾向がある。読みにくい本は、読み手に理解させる気るのかよ?、と文句たれるくせに、その逆の本には有り難味を感じにくいというずうずうしい読者なのである。

 さて、科学とはなんぞやという話である。著者曰く、「科学とはオカルトの嫡子」であり、「オカルトが大衆化したことから生じた」のだとのこと。

 ならば、そのオカルトの大衆化とはどのようにしてなされたか。「再現可能性」と「客観性」という二つの公共性を獲得して『科学』となったのであるという認識である。

 第Ⅰ章では<科学の起源とオカルト>について説いているが、「科学とオカルトの区分」は思っているほど簡単ではないとし、「私がさしあたって区分けをするとすれば、「オカルトは公共性を持たない信念体系であり、科学は多少とも公共性を持つ理論である」(p22)と、さしあたって定義している。

 この定義からすると、宗教は「公共性を持たない信念体系」ということになるか。一応、その信仰を持つ集団内部では常識であっても、“公共性”を持つとは云い難い。

 それではオカルト=邪、なのかというと、著者はかならずしもそのような使い方はしていない。オカルトとは“隠されたこと”の意であるという。

たとえば、錬金術には卑金属を金に変える「哲学者の石」や「錬金薬液」といったものがあるが、これらのものがいかなる手法により生成できるかについて、万人に分かるように書かれたマニュアルはない。これらは、秘法であって、ほんのわずかの選ばれた者にしか会得できないのである。これらは文字通りオカルト(隠されたこと)なのである。確かに錬金術は経験と実践を重視し、その意味では近代科学に連なる側面を有していた。しかし、その理論は実証可能なようには作られておらず、はっきり言えば、錬金術の理論と実践は実質的な関係を持っていなかったように思われる。(p28)

 

 秘術、奥義、秘伝。この手のものはオカルトってことになるのか。釈尊は全ての弟子に等しく法を説いたとされる。何も隠したものはないという趣旨のことも佛伝にあったはず。

 そう考えると、仏教は本来“オカルト性”を持たない思想と云えるのではないか。否、宗教とすら云い難いのかもしれない。仏教をBuddhismと呼ぶのも、ism(主義)としか云えない思想だからか。絶対者を認めるのが宗教だというのが、一神教徒の論理であるのだろう。

 ちなみに、ismって善い意味ではないらしい。神に額ずく連中は仏教徒を見下しているのかね。

そんな仏教も「瞑想」から「祈り」へ転換したあたりから、宗教色が強くなってきた感があるが、その辺の考察は本書の内容から外れるので措いておこう。

科学とは「再現可能性」と「客観性」にあるとするが、では「客観」とはなにか。

本当のことを言えば、客観が主観と独立だなんてことはない。もちろん、自然は我々人間の存在を抜きにしても存在することは間違いあるまい。だから、自然そのものを客観であると考えれば、客観は我々の存在と独立に存在する。しかし、そんな客観では、いかなる公共性も持ち得ない。なぜならば、公共性を持つためには他人に伝達する必要があり、伝達するためにはとりあえず記述する必要があるからだ。記述するのは、個々の主観である。だから、公共性を持った客観が主観から独立しているということはあり得ないのだ。 

 科学論文にはありのままの事実が書いてあると思っている人が多いけれども、実はここにあるのは事実ではなく記述である。たとえば、科学者がある実験をしたとする。ありのままの事実であるならば、実験をビデオに撮ってみんなに見せればよい。しかし、そんなものは科学者仲間から決して業績とは認められないだろう。科学論文と認められるためには、実験から有意味であると科学者仲間が認めるものを選びとって記述しなければならないのである。だから科学における客観的記述と称するものは事実そのものではない。(p56,第Ⅱ章 オカルトから科学へ)

 

「記述」と「事実」は違う。「学説」と「真理」は違う。そして科学は再現可能性のない「一回性」の現象を説明できないとする。

しかし人間は解らないという状態になじめないのか、なんとしてもその現象を結論付けたい。ここにカルトが侵入してくる契機があると云えるかもしれない。

 

「一回性」の現象を説明できず、「私」の存在が何故あるかを説明できない科学に満たされないとき、なんとなく解った気にさせてくれるものに引かれていくのも人情ってやつか。

 

現代社会では「かけがいのない私」探しに夢中になっている人を救済する制度はどこにもない。それは、現代社会のしくみが悪いせいではなく、原理的な話である。制度はどんなものであれ、「かけがえのある個人」を前提としてしか成立しない。どんな福祉事業も、いかなるカウンセリングもセラピーも、制度として構想されている限りは、一定のマニュアルに従った処方箋しか出せない。最終的には自分の生き方を自分で決定して自分で納得しない限り、「かけがいのない私」探しが終了することはない。(p171,第Ⅶ章 カルトとオカルト)

 

かけがいのない私など見つからんってわけだ。なぜならそんな者は最初から存在しないから。人は皆、「かけがえのある私」でしかない。淋しい話でもそれが現実だなぁ、と思うしかないやね。

カルトとオカルトの定義が不鮮明とも思うが、知的な探求を徹底してやりたい向きには相応の書物を当れば良い。科学的とかオカルト的とかを考える入り口にはなっていると思う。

2011年7月 9日 (土)

アホでマヌケなマイケル・ムーア

 アホでマヌケなマイケル・ムーア

 アホでマヌケなマイケル・ムーア

 David T. Hardy、 Jason Clarke:編著

  • 白夜書房 (2004/9/11)
  • 読後感:☆☆
  •   

     【時代の寵児か? 偽善者か?
    映画『華氏911』でブッシュ再選阻止を企む
    マイケル・ムーアの虚実を暴く
    全米ベストセラー!

     日本にも熱狂的ファンを持つマイケル・ムーア氏ですが、映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』や著書『アホでマヌケなアメリカ白人』で話題になる前の経歴は、あまり知られていません。本書では、『ボウリング……』以前のムーア氏の言動や作品について調べ上げ、そのダメダメな過去を白日の下に晒します。
     また、ムーア氏の映画では、メッセージを強く主張するために事実の前後関係を歪めたり、あからさまな「ヤラセ」撮影が行なわれたりと、通常のドキュメンタリー映画の作法から逸脱したシーンが多く見られます。本書では、具体的な場面を挙げながら、その手法を詳細に分析・批判しています。
     今回の日本語版では、巻頭にデーブ・スペクター氏が特別寄稿。日本の読者に向けて、「マイケル・ムーアのなにが問題なのか」「メディアの発する偏った情報に踊らされないためにはどうすべきか」などを語り、マイケル・ムーア・ブームに警鐘を鳴らしています。】

     マイケル・ムーアの名を知ったのは、「ボウリング・フォー・コロンバイン」が話題になってたころだったか。その頃オレはどっちかっていうと反米だったな。なんとなく好かんなアメ公はって感じか。今だって親米ってわけでもないが、アメリカに対する見かたが若干変わってきたのは、「リベラルたちの背信」を読んでからかな。

     

     ムーアのことは、これを読んで分かったとは云えない。ムーアの撮った作品を観てないもんで、ここでいちいち取り上げている作品の内容についても「へ~、」「そうなん?」、くらいの感想しかない。ムーアが素晴らしいにしろ、その逆にしろ、この御仁の撮ったものを観てない以上評価しにくいわけだ。

     元から興味の涌かなかった人物で、むしろ、環境保護活動家的な胡散臭さも感じていたんで、TVででも放送してくれりゃ別だが、あえて映画館まで行こうとまでは思わなかったのだ。

     じゃ、いったいなんでそんな興味もない人物のことを書いた本を読んだかっていうと、アメリカ人でありながらアメリカをこき下ろす彼と、日本人でありながら日本をこき下ろす連中がダブったせいだ。

     たく云うと、こいつも結局のところ“アカ”なんじゃねえの?って思ったってこと。

     予想通りってとこか。少なくとも本書を読むかぎりでは“アカ”だな。

     

     成功している白人を嫌悪することから、マイカー所有者への敵意、福祉国家に関する議論をすべてスウェーデンの話に帰着させる才能、そして資本主義はいつも金持ちが得れば貧しい者が失うゼロサム・ゲームだという意見など、左翼の偏見のすべてを支持する彼の手法は、ほとんど美しいといっていいくらいだ。(p94,アメリカ左翼はふくれっ面の大男に降伏)

     ムーアのやり方について、ここで指摘されている問題点は何かっていうと、要は「画像の切り貼り」による印象操作が甚だしいということである。

     つまり、君は“NHK”か?、ってわけさw

     例えば「ボウリング・フォー・コロンバイン」では、NRA(全米ライフル協会)の集会で演説する、チャールトン・へストンの映像を切り貼りして見せたという。

     この場面におけるムーアのでっちあげを、あたりさわりのない表現で言い表すことはとてもできない。全くの嘘、詐欺行為としか言いようがない。観客を欺くには膨大な編集作業を要したはずだ。実はここで、ムーアはヘストンの演説のそれぞれ5か所から7つの文を引っ張ってきて、そればかりかまったく別の演説からも一部分切り取って、これらひとつひとつをつなぎ合わせたのだ。スピーチを聞く聴衆の静止画像やビデオ画像などを挿入しながら、編集箇所は巧みに処理されているのである。

     まず、涙を流す犠牲者の姿を見せてから、その直後にヘストンの言葉が入る。「これだけは言える。死んで手が冷たくなるまで、この銃を放さない」と。まるで犠牲者達に向けて発せられた言葉であるかのように。

     そして、ムーアのナレーションと共に広告板の画像が挿入される。これは絶対必要条件だ。そうしなければ、ヘストンの実際のデンバーでのスピーチへ移ることができないのだから。このトリックなしでは、スピーチの途中なのにヘストンはなぜラベンダー色のシャツと紫色のネクタイから、白シャツと赤ネクタイに着替えたんだろう、と観客が疑問に思ってしまう。しかも、背景もくり色から青色に変わっている。画像挿入によって一時的に観客の目を逸らすことで、これら2つの画像を組み合わせたわけだ。(p105~106,『ボウリング・フォー・コロンバイン』の真実を求めて)

     NHKが「JAPANデビュー」でやったのと似てないかい?

     

     9・11関連でもぞくぞく出てくるんだなこれが。ビン・ラディン一族とブッシュ一族が同じ投資会社カーライル・グループに投資していたことから、裏で繋がっているという例の陰謀論だ。

     残念ながら、カーライルと関わっているのはブッシュ一族とビン・ラディン一族だけではない。両者に加え、投資家のジョージ・ソロスまでもが投資に仲間入りしているのである。ソロスはやはり大富豪の融資家で、今は極左の反ブッシュ団体「ムーブ・オン(moveon.org)」(インターネット上の政治活動サイト)に資金を供給しており、その結果、この団体は2004年大統領選挙選において、民主党のソフト・マネー(議員ではなく政党に対して贈られる政治献金)調達の面でほぼ主導権を握り、巨額の資金を集めている。(p237,華氏666:それは真実がみるみる歪められていく温度)

     

     興味深い裏話がてんこ盛りで☆3つ付けたい気もするが、いかんせんこの著者たちのこともムーアと同じくらい知らんので、ひょっとしたらムーアと同じ手法で欺かれているかもしれんと一応、警戒しておいての☆2つ。

     とは云いつつも、本音はやっぱりこの本を信じてるけどね。どうも左巻きな連中は好きになれんのだわ。もっともらしい理屈と修辞で素朴な人間を欺こうとしてないか。最近本当に世界市民面した奴らに対する嫌悪感が強くなってきたな。

     

     ついでに云っておくと、ブッシュ政権の酷いところを指摘するのはいいが、クリントン政権の8年間の尻拭いをさせられている面もあるってことは認識しておいた方がいい。

      

      

     

     

    2011年6月21日 (火)

    格差社会で日本は勝つ

     格差社会で日本は勝つ 「社会主義の呪縛」を解く

     

     格差社会で日本は勝つ―「社会主義の呪縛」を解く

     鈴木 真実哉:著

     幸福の科学出版 ,2007

    読後感:☆☆

     【「格差社会」は悪ではない。むしろ、今後、日本が繁栄していく
    ためには「努力が報われる社会」としての格差社会を肯定すべきだ--。
    「金持ち=ズル」「大企業=悪」「地価上昇=バブル」という社会主義の呪縛か
    ら、日本人を解き放ち、真の経済大国へと導く注目の書。】

     

    目次

    第1章 格差社会は本当に悪なのか—今こそ「社会主義の呪縛」を解け!
    第2章 貧困の克服は国家の役割なのか—企業家こそが世界を救う
    第3章 いつまでデフレ問題で騒ぐのか—間違いだらけの経済学
    第4章 経済学は本当に役に立っているのか—教科書では教えない経済史
    第5章 日本は世界一の経済大国になれるのか—すべては「教育」から始まる

     幸福の科学出版からでた本というのを、買ってから気づいた。この著者がここの信者なのかは知らん。

     驚くようなことが書かれているわけではない。成功者を嫉み、たかる浅ましい根性を捨てること。云わば、社会主義の呪縛を解くこと。ここに、日本経済の復活はあるということ。  いわゆる「負け組み」と呼ばれる人たちにしてみれば、格差があるのは良いことだなんていうのはけしからん話かもしれないが、同じく「負け組み」のオレは、著者の言い分をすんなり納得できた。

     ホント云うと、読後感は3つ☆で良かったんだけど、如何せん、出版社が幸福の科学ってところに引っ掛かってしまったもんで☆2つ。

     だれが云ったか失念したが、「社会主義とは体系化された嫉妬の論理」という言葉がある。どんなに立派な理屈をこじつけたところで、この思想の根底にあるのは、「オレの持っていない物をおまえが持っているのは気にいらねえ!」ってところにある。オレはそう解釈する。

     しかしだ、世の中の発展というものは皆がギリギリの生活であったなら起りえただろうか。余裕のある人たちが生み出したものによって、結果的に皆が便利な暮らしを得ることができたのではないだろうか。

     成功者を見て、悔しいと思う気持ちはあって良い。卑しいのは、自分がそこへ行けないからといって、そこから相手を引き摺り下ろそうって発想であると思う。

     実は格差に伴う嫉妬心の解決法としては、欲を抑えて努力をし、成功者を祝福する以外にありません。みんなで嫉妬心を正当化して金持ちからたかることを制度化したのが共産国家だったわけですが、結局、全員が貧しくなっただけに終わりました。 (p89,第2章 貧困の克服は国家の役割なのか—企業家こそが世界を救う

     無理に結果平等を実現しようとすると、全員が貧しくなるだけ。だから著者は、日本に蔓延している社会主義の呪縛を解けと云っている。

     いったい社会主義の根本的な誤りとはなんだろう。この思想の“教祖”マルクスの発想にあるものは「階級社会」である。

     「階級社会」とは、例えば、資本家と労働者です。マルクスは農民や労働者は、資本家に搾取されていると考えたわけです。しかし、この「搾取」という言葉自体が実は経済学的ではないのです。 

     というのは、経済学を研究している人でもよく勘違いするのですが、資本家、労働者、地主というのは、実は「身分」ではないのです。

     「機能」なのです。(p18,第1章 格差社会は本当に悪なのか—今こそ「社会主義の呪縛」を解け!

     そして、この立場は流動性があって固定化されたものではない。地主が労働者でも有り得るし、会社員でも株主で有り得る。むしろ、凶惨国の方が身分が固定されているくらいだ。

     

     社会主義の元祖マルクスについて面白いことを云っている。

     本書では、いろいろな学者を俎上に上げているが、例えば、ケインズにしろ、バヴェルクにしろ、シュンペーターにしろ、自分自身経済的に成功を収めている。

     ならば、マルクスはどうか。

     ところが、有名な経済学者で一人そうではない人がいました。

     それがマルクスです。マルクスは貧乏で晩年も恵まれませんでした。お世辞にも成功したとは言えない人生です。

     言ってしまえば、自分を成功させた人の理論は経済を発展させましたが、自分の人生を成功させることのできなかった人の理論は世界を貧しくしたということです。

     やはり、豊かになろうと思えば、成功者の理論を学ぶべきです。マルクスは猛勉強して読書に励んだかもしれません。その努力は立派ですが、人生には敗れているわけです。しかも学説が間違っています。敗北した人の理論を学べばやっぱり敗北するという、考えてみれば当たり前のことになっただけなのです(p182,第4章 経済学は本当に役に立っているのか—教科書では教えない経済史

     “金持ちの考えた経済学は効くが、貧乏人の考えた経済学は効かない”というわけか。文証・理証より、現証といっても良い。

     

     弱者の救済といえば聞こえはいい。しかし、弱者であることが武器になるような社会にしてはならないはずである。だが、社会主義者というのは、国家がなんでも面倒をみるべきという発想を持った者が多いのではないか? しかも、どういうわけかその手の者は、根底において国家を否定している。国家を否定していながら、国家に無理難題を要求する。最早、国家を疲弊させて国家の崩壊を促そうとしているのではないかと思えるほどである。

     

     限られた資源を使って最大の成果を出すという視点がないのです。福祉国家とか社会主義国家の特徴は、財源の問題を無視しているところです。資源が無限にあるという前提で初めて成り立つ議論なのです。(p82,第2章 貧困の克服は国家の役割なのか—企業家こそが世界を救う)

     

     国家はドラえもんじゃないってこと。

     そして、発想の転換というか気づいていなかったこと。 デフレについて。

     考えてみればデフレが起きるのは当たり前のことです。東西のヨーロッパが一つになったということは、どういうことでしょうか。東ヨーロッパの賃金は西ヨーロッパよりはるかに安いのです。 つまり、今までドイツやフランス、イギリスでつくっていたものを、ポーランドやハンガリーに工場を移すだけでかなり安くできるようになります。さらにそこに中国が入ってきます。中国では東欧以上に安くできます。

    すると東欧や中国でもつくれる品物を日本やドイツ、アメリカでつくっても、価格競争で敗れ去ることになります。実際、日本のタオル産業などは低価格の中国産に押されて大打撃を受けています。

     これはベルリンの壁崩壊で起きた津波という自然の流れであって、津波に文句を言っても仕方がないところがあります。津波が来たら高台に逃げるしかありません。

     高台とは技術で言えば高い技術のことです。低い技術しか持っていないと津波に呑み込まれてしまいます。

     従って津波がやってくるのであれば「高い技術を身につけておきなさい」ということになります。現にデフレという津波が押し寄せても、高い技術を持ち、高品質の製品をつくっているところは全然やられていません。

     中国がいくら安い繊維製品をつくってもルイ・ヴィトンやシャネルやエルメスはやられたりしていません。高台にあるからです。

    海抜ゼロメートルにあるような、どこの国でもできるようなものしかつくれないと津波に呑み込まれてしまいます。ということは国内にアルプスやヒマラヤみたいな高い山脈を抱えている国ほど生き残れるということになります。高い山とは他の国では真似のできないような質の高い技術を持っているということです。そして日本はまさに高い山脈を抱えている国なのです。(p106~107,第3章 いつまでデフレ問題で騒ぐのか—間違いだらけの経済学

     

     これは日下公人の著書にもあった指摘である。日本のような技術の高い国は、量の経済から質の経済へ移るべきということ。ブランド力の強化ということか。

     あと、円高で日本の輸出産業が悲鳴を上げているというのもよく聞く話で、たしかにそのとおりのところもあるかもしれない。しかし、次のような指摘もある。

     現在、日本の輸出品の八割ほどは生産財や資本財なのです。消費財はほとんど輸出していないのです。自動車などはすべての輸出品の中で言えばほんの一部です。トヨタやホンダなどは世界中に輸出しているイメージがあるかもしれませんが、海外で売っているのは海外で生産しています。言うほど円高や円安の影響を受けていないのです。「自動車産業が円高でやられたら日本は危ない」というニュースはほとんどフィクションの世界、昔話の世界です。 では輸出の中心となっている生産財や資本財とは何でしょうか。何か製品を生産するために必要なものです。工作機械とか金型とか部品とかのことです。(p108,第3章 いつまでデフレ問題で騒ぐのか—間違いだらけの経済学

     ひとつひとつツッコミ入れるほど経済通でないため、この手の経済本を読んだときの評価の基準は、日本経済に悲観的か楽観的かという点で、読後感の快・不快を決めるしかない。

     ならば本書は快である。日本はまだまだ捨てたもんではないと思えた。

     にも係わらず、もやもやしたものが残るのはやはり、幸福の科学からでている本ってところにある。こういうことを書く人が、ここの信者なんだろうか? 

     だとしたら、いったい何がよくてやってるんだろうか?

    2011年6月12日 (日)

    地獄への道は『朝日新聞』の「善意」で敷き詰められている

     「モンスター新聞」が日本を滅ぼす メディア閻魔帳

    モンスター新聞が日本を滅ぼす [単行本]

    読後感:☆☆

    【いまや「モンスター」は親だけではない。数々の信じられないウソや偏向報道で日本を腐す大手マスコミの「モンスター」ぶりを暴く!
    大手マスコミの“赤い御三家”と、それにしたがう地方新聞やテレビの報道番組。その実態をつつみかくさず明らかにする。】

    目次

    横田夫妻に残酷だったマスコミ/事件を事件にしない/自衛隊にケチをつける『朝日』/歴史の真実を知らない日テレ/NHKに「言論の自由」!?/未熟な大人をもち上げるTBS/よくぞ言った橋下弁護士/愚にもつかぬ『あるある』騒動/大軍拡に快哉を送った『朝日』/「タミフル騒ぎ」の事実歪曲/「原発はやめろ!」は馬鹿の大合唱/古舘伊知郎の真っ赤な嘘/殺人食品を見ぬふりの『朝日』/正真正銘のマッチポンプ報道/悲しき反安倍キャンペーン/基地と市民と『朝日新聞』/日本を溶かす元凶/嫉妬と偏見の日本国憲法/民主党大統領は日本に不利だ/“侵略者・日本”をでっち上げた米中の都合/祖国を罵る悲しき日系人の「業」/日本の官僚は腐っている!/何度でも言おう、世界はみんな腹黒い  

     「世界は腹黒い」を以前に読んでいるが、あれは本当に精神によろしくない本であった。兎に角、腸が煮えくり返って、すんなり読み通すことのできない本であったのだ。だから今度も、怒り狂うハメになるんじゃないかと思って読んでみたら、アラ、痛快なことよ!

     「世界は腹黒い」では、日本が損をしまくっている姿と腐れ毛唐どものあくどさがこれでもかってくらいに書かれていたもんで、読み終わるころには精神が狂乱しかかったものだが、本書はそんなことはない。何故なら主に槍玉に上がっているのは、「アサヒル新聞」だからであるw
     只管自虐史観を日本人に植えつけるこの赤い新聞を、わざわざ金を払って読む人もいるのだから驚きである。この新聞の名を聞くと、高校の社会科の教員を思い出す。
      
      「新聞なら『朝日』、ニュースならTBSの『ニュース23』を見れば世の中が見える」、と云っておったわ。あの先生にしたらそれこそ本書などは、読むと狂乱する類の本ってことになるのだろうな。
      
      さて、いろいろと頷ける点と、そうなのか?と云いたくなる点もあったが、“日本人の信義と公正観が白人国家を刺激してきた”という指摘は、なるほどな~、と思った。
     
     “世の中はきれいごとでは動かない。みんな汚いことをやっているから、お互い目をつぶってやるのも国際外交だ。”(p225)ってわけで、さんざん毛唐どもは世界を蹂躙してきたのだが、毛唐の技術に学んで近代化し、白人国家に追いついてきた日本という小国は、あろうことか白人様に楯突くようになったのだった。
    たとえば、明治政府が誕生してすぐ、横浜に入港したペルーの船「マリア・ルーズ」から支那人が逃げ出す事件があった。マカオでさらわれペルーで売られる苦力とわかって、明治政府は「奴隷商売は許されない」とつながれていた220余人を解放した。(p224~225,何度でも言おう、世界はみんな腹黒い)
      日本人の潔癖症は、さぞかし毛唐をイラつかせたに違いない。 「先に近代化した者たちの特権だろ?」ってのが、毛唐の言い分であったろう。それを日本人は「汚い真似をするな!恥を知れ!」とやったわけだ。
      
     毛唐ご立腹! かくして日本は目の敵となるのだった。
     いくら誠実に向き合ってもダメね、その誠実さが腹黒い奴らをイラつかせるんだな~。平和構築はかくも困難であるのだ。
      
      植民地獲得競争に明け暮れていた毛唐。これに対しても、
     
     この植民地経営の上に、世紀末を彩るアール・ヌーボーが花開いた。そんな豊かさをもたらす植民地支配を正面から否定する人種平等案を国際連盟規約の前文に入れろと、日本人は無邪気にいう。
     それを職権で握り潰したのは、米大統領ウッドロー・ウィルソンだった。これで彼の名は人種差別主義者として後世に残るが、おかげで白人国家の植民地支配は保証された。
     進んで汚れ役を買って出た彼の勇気に報いるため、白人国家は彼にノーベル平和賞を贈った。同時に彼らは、こんなに堂々と白人支配を告発する日本をそう遠くない将来に抹殺しようと決心する。(p228,同)
     
     そして白人様からフルボッコにされ、敗戦国となった。が、その無邪気な潔癖症は変わりはしなかった。
     
     彼らが熾烈に冷戦を戦っているなかで、ひとり能天気に平和でいきましょう、核はやめましょうという。そして気づいたとき、日本は自由世界第2位の経済大国に成長していた。
     それが、信義と公正もない国際社会から疎んじられ、日本いじめを生んでいる。日本だけを狙った捕鯨問題、米議会にもち込まれた従軍慰安婦問題も、じつは日本人の潔癖症に苛立った国際社会のしっぺ返しという面がある。(同)
      
       
    “平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。”とかいう日本国憲法のお馬鹿な前文って、ひょっとして日本人を皮肉ってるのか?
     そんなこんなで、できれば争わずにみんなと仲良くできないものかと思っている人にとっては、歎息の出る現実を突きつけられる内容でありますね。
     
     もうひとつ、“日本人の隣人に対する態度は国際社会と大きくずれている”ことを指摘し、こんなことを述べている。
     基本的には、隣人はせっかく分裂しているのだから、統一に手を貸す必要はない。できれば南北間の溝を掘り下げるのが日本外交の手腕なのだ。
     もう一方の中国はどうするか。中共の一枚岩に見えるが、日本はそこにヒビ割れを起す方策を考えることが大切だ。(p240,同)
      実に気持ち好い発言である。 朝鮮については拉致問題をどう解決するのかという難しさがあるが、どう見ても彼の国は統一したところでややこしさが改善されそうな気配はない。ならば南北が一つになって反日祭り(笑)はじめるよりは、分裂してくれている方がマシって考え方も有りか。
      祖国を罵る悲しき日系人の「業」だけはちょっとムカついたけども、全編貫く著者のブレない罵倒っぷりに快哉を叫びたい。
      今話題の原発についての記述は、自分としては反発もしないが同意もできないってところ。態度保留としておきたい。

    2011年4月19日 (火)

    遙かなるセントラルパーク~大陸横断ウルトラマラソン

    遙かなるセントラルパーク―大陸横断ウルトラマラソン

    著:トム・マクナブ,訳:飯島 宏,文芸春秋,1984  

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    読後感:☆☆

    Los Angeles からNew York のセントラルパークまでの5千km以上の道のりを、走って横断するという途方もない企てを起した興行師が現れた。その男の名はチャールズ・フラナガン。本書の原題は、彼の名をとって、「FLANAGAN'S RUN」である。

    実はこれ、1928年にC・C・パイルという興行師が企画して行なわれた実際のマラソン大会を基にした小説なのである。

    そんなことがあったなどということを知っている人って、どのくらいいるのだろうか。

    これは駅伝のような、集団で走り繋いでいくというものではない、自分一人で5千km以上を走りぬくのである。

    人間が一日に約80kmもの距離を走り、それを3ヶ月近く続けるという凄まじく過酷な競技である。長くて10kmしか走り続けたことのない自分には、想像を絶する己との勝負である。

    それにしても、ひたすら走り続ける者たちを描くこの筆力はすごい。それもそのはず、と云うべきか、著者はあの「炎のランナー」という映画の技術指導や台本の顧問もやった人物らしいのだ。

    それだけに、走っている時の走者の身に起きている変化、筋肉の動きや、「毎日7万回地面を打つ」ことによる地獄のような足の痛み、肺に空気が針のように刺さってくる感覚など、走る趣味を持たない自分にまでその苦しみが伝わってくるのである。

    ところで、本書は作家の山本一力がNHKの「ラジオ深夜便」で、旅に持ってゆくならこの本ということで紹介していた小説である。昨年の9月ころだったか?

    なかなかハードカバーでは手に入らない本である。オレはハードカバーが好きなので、netで購入した。

    兎に角、身体を動かすのが好きな人なら、これを読めば走り出すはずだ。それだけの筆力がある。

    登場人物たちもなかなか魅力的である。元五輪選手、炭鉱夫、貴族、踊子、故郷の仲間を救うために参加したメキシコ人、それに、時代背景が背景だけにナチスが送り出した選手団なんかもいる。元製鉄所の組合運動を率いていて、失業してしまった者。その他、各国から集った選手たち。

    それぞれの目的はなんだったか。賞金。もちろんである。しかし、彼らは走り続けていくなかで、自分を駆り立てているものがなんであるかを知る。

    前代未聞の大興行である。さまざまな障害に、この「大陸横断マラソンの一行」は遭遇する。選手はもちろん、興行主であるフラナガンの身にも。

    五輪開催を控えていることによる、五輪委員会の思惑。それによる政治的圧力。彼らは無事にセントラルパークへたどり着けるのか?

    個人と個人の戦いである、マラソン。しかし、そのなかで芽生えていく友情。

    いったい何人の選手たちが完走を果たせるのだろうか?、そして優勝の栄冠を受けるのは?

    ひたすら走り続ける者たちの栄光を高らかに謳い上げる!

    ゴールの場面では、思わず目頭が熱くなった。

    2011年2月27日 (日)

    東電OL殺人事件

    東電OL殺人事件
    著者 佐野 眞一
    販売元

    新潮社

    読後感:☆☆

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    【1997年3月8日深夜、渋谷区円山町で、女性が何者かによって絞殺された。

    被害者渡邊泰子が、昼間は東電のエリートOL、夜は娼婦という2つの顔を持っていたことがわかると、マスコミは取材に奔走した。

    逮捕されたのは、ネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリ。娼婦としての彼女が、最後に性交渉した「客」であった。 彼女は私に会釈して、「セックスしませんか。一回五千円です」といってきました―。

    古ぼけたアパートの一室で絞殺された娼婦、その昼の顔はエリートOLだった。なぜ彼女は夜の街に立ったのか、逮捕されたネパール人は果たして真犯人なのか、そして事件が炙り出した人間存在の底無き闇とは…。】

    あの事件があったのは今から14年も前になる。被害者が東電の管理職という昼の顔と娼婦という夜の顔を持っていることが分かってからの、mediaの狂乱ぶりというのも、実は自分の記憶には残っていない。
    なのに今自分は、この渡邊泰子という人に“発情”してしまった。著者の言葉を使えば、それは発情としかいいようのない感情だとおもう。
    これもまた著者の言葉を借りると、この事件の持つ“文学性”が、この発情を起させるのかもしれない。
    いったい犯人は誰なのか?
     
    本当に不法滞在のネパール人、ゴビンダ・プラサド・マイナリなのか?
    そういう犯人探しではないのだ。オレが発情しているのは被害者である渡邊泰子という人、あるいはその“生き方”に対してなのだと思う。
    不謹慎なのは分かっている。一人の命が奪われたのだから。
    何を云おうと、この事件について語ること自体が死者に鞭打つことになるような気はしている。
    そっとしておくこと。ただ、そっとしておくこと。それだけなのかもしれないとも思う。
    しかし、彼女は忘れて欲しいのか?
    本当に、このままたんなる事件として忘れ去って欲しいのだろうか。
    解らない。
    まさにこの“解らない”ということにこそ、この人に発情してしまう理由がある。
    『謎という水を満々とたたえて決壊寸前にある巨大なダムのような存在』(p441,あとがき)なのが渡邊泰子という人なのであり、遺族の方たちが“そっとしておいて欲しい”と思うほどには、かの女自身は忘れられたいとは思っていないのではないかと思えてならないのだ。
    1997年3月8日深夜、京王井の頭線「神泉駅」のすぐそばにある、木造アパート「喜寿荘」の一室で、死後11日も経って彼女は発見された。

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    半地下形式の居酒屋、「まんぷく亭」の店主も、二階に住む老夫婦にも気づかれることがなかったその時、誰が、何の為に。
    著者は捜査当局が“眼をつけた”このネパール人には、冤罪の可能性が濃厚であるとみて取材している。
    なるほど、そこも重要ではある。今まさに、二人目の被害者がこの事件から出ようというのだから。
    が、読者として欲を云わせて貰えば、著者にはあくまでも渡邊泰子という人にもっと迫ってほしかった。
    下衆であるのを承知でそう思う。
    著者、佐野眞一は何度も“こころの闇”、“堕落”という言葉を使っている。
    そして著者は、泰子の“堕ち方”を「大堕落」と呼ぶのに対して、この事件を見つめる社会のあり方を「小堕落」と呼んだ。
    しかし、ならば著者には本書を書き上げるにあたって、
    「私の本意は彼女のプライバシーを暴くことではない。あえていうならば、この事件の真相にできるだけ近づくことによって、亡き彼女の無念を晴らし、その魂を鎮めることができれば、というのが私のいつわらざる気持ちである。」(p10~11,プロローグ)
    という前書きを云って欲しくなかった。自分の仕事の評価は読者に委ねればよいではないか。
    渡邊泰子が自分の生き方に言い訳したろうか。
    「人間なんて、所詮こんなもんでしょ?」
    彼女の生き方からは、そんな声が聞こえてくる。
    ジャーナリストだとか、社会的な立場だとか、そんなものが自分の本質を本当に表しているのかと。
    自分の行動を着飾るのは、彼女のこころの深遠からむしろ遠ざかることなのではないか。

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    著者はそれでも、間違いなく渡邉泰子に発情しているさまを随所で見せつつ、事件の真相に迫ろうとしているが、それをやるならばもう一冊使って書くべきであった。そうして欲しかった。

    著者は本書を出して一年後には、「東電OL症候群」を書いているのである。ならばやはり、一冊は被害者である渡邉泰子という“存在”、その深遠に迫ったものを書き、次に捜査当局と司法の闇に迫ってもらいたかった。
    著者は泰子の足跡を辿り、円山町、泰子の永福の自宅、彼女の眠る多摩丘陵の墓地、円山町を作った人々の故郷、奥飛騨、さらには容疑者の故郷ネパールにまで取材に向かっている。
    尤も、ネパールまで向かって得たものに、どの程度の意味があったかは疑問だ。
    本書を読んでいて、最も自分のこころを捉えてくるのは、土地である。彼女が足跡を残した土地に纏わる物語。その土地の声が聞こえてくるような感覚。

    富山県境に近い岐阜の奥飛騨に御母衣ダムがある。その水没した地を立ち退かされた人びとの一部は東京に移住してきた。

    やがて渋谷区円山町で旅館業を営むようになる。

    水没した土地と、ラブホテル街円山町が“地下茎”で結びつく。

    そして、その円山町の“夜の底”に沈んだ東電OL。

    ダム=電力=東電。

    著者はこの事件に文学性を感じたようだが、まさにこの著者の発情のしかた、彼女に魅せられてしまった、そののめり込み方に自分は引き込まれたのだ。

    だからこそ、法廷の記述が始っていくあたりから、自分のこの感情の昂ぶりが“断絶”されてしまったのだ。

    真相に迫りたいのも分かる。容疑者を救いたいのも分かる。冤罪の可能性を指摘しなければという、ジャーナリストとしての使命感のようなものも分かる。

    だが、どうしても法廷と司法の闇を描くあたりからは、渡邉泰子が消えてしまうのだ。彼女の存在感が消えてしまう。

    何か、真相を掴もうとすればする程、彼女はすり抜けていく。そんな気がする。

    法廷という全てを明らかにするべき場所には、渡邉泰子は立ち表れてはこないのだろう。

    この事件は、純粋に犯人を追っていくだけでも立派な本を書けるはずである。彼女の客には、元総理経験者の息子の名前もあったらしい。

    そこに迫った本を書いてもいいのではないかと思う。ただ、それは渡邉泰子の物語とは別箇にやってもらいたい。

    本書では、彼女の“こころの闇”と事件そのものの真相にまで迫ろうとしたが為に、どちらとも中途半端になった感は否めないと思うのだ。本書のreviewを読んでも、かなり厳しい評価がされているのはその辺にあるのだろう。

    ただ、本書に出てくる土地に実際に立ってみたい、そんな気になってしまう魔力はある。それは渡邉泰子の放つ磁力なのだろうし、それに魅せられてしまった著者の“発情”が、読み手の自分にも伝わり、まさに“発情”してしまっているからなのだろう。

    彼女の存在そのものが文学になっている。そんな気がしている。

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