書籍・雑誌

2009年12月 8日 (火)

The Day Of The Jackal

かの有名な、ジャッカルの日をいまさら読んだ。

Caprelsu

著者はフレデリック・フォーサイス。

星: ☆ ☆

かのフランス大統領、シャルル・ドゴール暗殺を目論み、しかし幾たびもの暗殺計画に失敗した愛国者たちが、最後の切り札として切ったカードこそが、コードネーム「ジャッカル」であった。

このイギリス人の狙撃手は、その辺のゴロツキどもが頼みとするような安い仕事はしない。マフィアのボス等を狙うような仕事ではないのである。国家元首級の暗殺をやってのける凄腕の狙撃手である。

ゴルゴかよ!って思うくらいのもんだ。用心深いところも近いものがある。

さて、何故にこの愛国者たちはドゴールを暗殺せねばならなかったのか?

まずは、この暗殺をジャッカルに依頼した、マルク・ロダンという男が何者かだが、彼はOAS(秘密軍事組織)の作戦主任である。そしてOASとは、ひと言でいうなら極右である。国益を損なう輩は死すべきであると考えるわけだ。

当然、左翼など根絶やしにすべきと考えるわけだ。まったく同感である(笑)

そもそも連中にとって、ドゴールはフランスそのものであったのだ。

『一九五八年六月、ドゴール将軍は、首相として権力の座に返り咲いた。将軍は、腐敗し崩壊の危機に瀕した第四共和制を廃して、第五共和制を敷いた。“フランスのアルジェリア”という彼の発言が国民一般の声となって反響し、それが彼をマティニョン(首相官邸)へ連れもどし、ついで一九五九年一月、彼はついにエリゼ宮の主となった。そのときロダンは感激のあまり、自室に飛び込んで、うれし泣きした。アルジェリアを訪れたドゴールの姿は、ロダンの目にはさながら、オリンポスからご降臨になったゼウスのように映った。新しい政策が施行されるものと、ロダンは信じた。共産主義者どもは追放され、ジャン=ポール・サルトルは反逆罪に問われて銃殺され、労働組合は屈服し、アルジェリアにいる同胞とフランスの文明のフロンティアを守る軍に対する祖国の暖かい支援の手が、いまにも差しのべられるだろう、と。』P29,第一章 陰謀の解剖学

しかし、ドゴールは彼らの信じたような男ではなくなっていった。

彼の祖国復興策に、アルジェリアは含まれていなかった。

もはや、彼にとってドゴールは憎悪の対象でしかなくなっていった。

はたして、ドゴール暗殺はなるのか。

偽造旅券と変装の業を駆使して、着々とその時に迫るジャッカルと、それを迎え撃つ、こちらもやりての警視、ルベル。軍配はどっちに上がるのか!というスリリングな一冊。

上等な読み物であった。

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2009年11月30日 (月)

憲法九条はクリスチャンがつくった?

人脈ものが好きな向きには、おすすめ。こてこての陰謀論に陥ってないのが好い。

『 天皇をとりまく二つの人脈があった。

 一つは、維新から明治にかけて、長州藩閥政権との闘いに敗れた「敗者たち」の群像。もう一つは、昭和天皇そして今上天皇と強く結びついたクリスチャン人脈である。二つの流れは交錯しながら皇室を支え、今日の日本のかたちをつくりあげた。(P3,まえがき)』

 まず、憲法はSCAPの押し付けだという話だから、当然、クリスチャンがつくったってことになるでしょう。べつに、おおげさに言うまでもない。

本書には、いろいろと大物がでてくるが、じつにクリスチャンが多い。

まぁ、バチカンの戦略として、上流階級を改宗させるってのがあるんでしょうな。

 

今上天皇と美智子妃の出会いをつくったのも、、クリスチャン人脈だという話である。

『 一九五七(昭和三十二)年、軽井沢のテニスコートにキューピッドが舞い降りた。その舞台をつくった三人の人物がいる。

 昭和天皇、カトリックに近い聖公会信徒であり、長く慶応義塾塾長をつとめた小泉信三、そして、死の直後にカトリックの洗礼を受けることになる吉田茂元首相である。

 小泉も吉田もクリスチャン人脈の中にいた。結論からいうなら、カトリック家系の美智子妃誕生は、昭和天皇の同意のもと、この二人が仕掛けた政略結婚だった。(p14,第一章 皇太子ご成婚と二人のクリスチャン)』  

しかし、何故、美智子妃でなければならなかったかは不明。

クリスチャンなら誰でもいいってわけはないはずだが。

てことは、日清製粉の正田英三郎社長の娘ということで、家柄も好いからってことですか。

家柄は大事なんですなぁ。ここに出てくる人たち皆、皇室、政界、旧武家の末裔だの実業界だの、まぁ、庶民はいないですわ。

それなりの地位にある人はたちは、結婚するにも血筋を選ぶわけだな。

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隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?

星:☆

皇室に取りついた怨霊として、楠木正成をもってきたのも面白い。

『 楠木正成は、神として祀られるとともに、王政復古の大号令で歴史の表舞台に返り咲いた天皇を悩ます怨霊ともなっていた。大衆的な「大楠公」人気に支えられた南朝史観である。北朝の流れをくむ皇室は、この「見えざる敵」と闘うことを宿命づけられたのである。

 その後、日本は、楠木正成の怨霊にとり憑かれたかのように、真正面から米国にぶつかっていく。そして敗戦。皇室は存亡の危機に立たされることになる。

 この時、誰が皇室を救ったのか。いったい誰が昭和天皇をまもったのか。

 当時、皇室周辺にいた人脈をつぶさに見ていくと、意外にも、日本では数少ないクリスチャンたちの姿が浮かび上がってくる。そして、「皇室を救い出す」トリックとして生み落とされたのが「憲法九条」であった。(P6,  まえがき)』

じゃ、憲法改正は不敬にあたるのか?、と思ってしまうが、そこは国家のおかれている情況によるってことでしょうな。

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2009年11月 8日 (日)

腐れ左翼が暗躍する外国人参政権法案に亀井が反対

亀井が売国法案に反対姿勢を示した。えらい!

これの推進派は左翼であって、尚且つこの法案によって得をするのは、おもに在日朝鮮人と在日支那人である。人口的にいっても、実質彼らのための法案であろう。

なにが問題かって、それは彼らの国が筋金入りの反日国家であることだ。

三世、四世までの世代に渡って日本に在住していながら、日本国籍を取ろうともしないことからいっても、日本に同化する気はないわけだ。にもかかわらず国に帰らないわけだ。結局彼らとしてはどうなんだ?日本は住みやすいのか、住みにくいのか。当事者でもない人権派どもが脇で差別だなんだと騒いでるが、本当に彼らは言うほどの差別を受けているのか?

あたりまえだけど、日本国民でないのだから、まったく同じ扱いを受けるわけはないよな。分かるでしょうよそれくらい。

まぁ、これの背後で蠢いている連中が腐れ左翼であるのは間違いないから、道理を説いても理解はすまいな(笑)

世界的な潮流がどうのこうの言って、日本が頑なに外国人参政権を拒んでいるのは人権意識の低さと、悪しき血統主義であると断罪してみせるのだろう。

この本がその類である。

「外国人参政権と国籍」近藤 敦:著,明石書店,1996

外国人参政権と国籍新版

星:×××

『問題はアジアの動向である。日本が先駆けて国際移住と国際結婚の盛んな時代の人権、地方自治、帰化行政のあり方を示すには、戦後処理の課題とも誠実に向き合うことが不可欠である。圧迫と偏狭な政策を隣国の人々に強制した過去の反省から、「同化なき市民権」、「同化なき国籍」の要素とグローバルな市民道徳、人権意識を兼ね備えた民主主義のシステムを考案することは、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」憲法の理念に合致する。国内に住んでいる民族的・文化的少数者の権利擁護政策の一環として、総合的な施策が求められている。新たな理論の再生は、国民と外国人との二分法をやめ、永住市民というステイタスを導入したり、二重国籍という選択の幅を広げながら、個人の自己決定を保障する柔軟な枠組みの優れた特徴をいかに伝えることができるかにかかっていよう。』p183,Ⅳ永住市民権か二重国籍か

さすが腐れ左翼ですな、国民と外国人の二分法をやめって(笑)

国家の体をなさなくなるね(失笑)

つまり、国民としてとるべき態度は、彼ら腐れ左翼の望んでいることと逆をやれってことですね。納得。

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2009年11月 1日 (日)

Love Affair

「オハイオ―ニューヨーク物語」著:シリル・R・リーイ,出版はもちろん日本語翻訳権独占の早川書房

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星:☆

ニューヨークが舞台ってことで読みました。

かいつまんで言うと、オハイオ(田舎らしい)からバスでニューヨークにやってきた娘(フランキー)が、偶然出合った中年男(マキーヴァー,妻子持ちだが別居中)の家に泊めてもらうことになり、そこから互いに惹かれあっていくって話。

特にこれといった事件が起きるでもなく、淡々と流れていくのも悪くはないね。

欲をいえば、この男(記者である)が追っている同僚の失踪事件を、ふたりの恋物語と並行して書き上げることができていたら、もっとオレ好みの小説になったかなと思う。

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2009年10月31日 (土)

正義と憎しみの構造

この著者は、テレフォン人生相談でおなじみの人である。たしか。

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「正義」と「憎しみ」の構造―オサマ・ビンラディンは十六歳の少年だった!?

著:加藤 諦三,PHP研究所,2002

星:☆

著者の洞察では、オサマ・ビンラディンや反米テロリストという連中は、アメリカが憎いのではなく、祖国に対する愛憎からきているということである。そして、敬虔なムスリム(宗教者)でありながら同時に残虐なテロルを行えるのは何故なのかという疑問は、行動面だけ見ると矛盾しているようだが、心理的に解釈すると矛盾はないという。「憎しみがイスラム教の仮面を被って登場した」の一語につきるということだ。つまるところ、心理的に成長が止まった人々として論じている。

『西欧の文明は人を堕落させる、西欧文明はくだらないと主張しているのは、イスラム原理主義の防衛的価値観である。アメリカを認められないのは、自分たちの日常生活が不満足だからである。

実は、彼らも心の底の底ではアメリカが羨ましい。しかしそれを認めることはアメリカを始め西欧に負けることである。だから認められない。』(P20,「第1章 正義という仮面」)

アメリカ憎しが、じつは根っこに憧れがあるというのはオレも感じてはいた。9・11が起きたときに思ってたのは、「この連中の国は、戒律がうるさすぎて退屈なんだろうなぁ」「することないんだろうな」「娯楽もなく楽しみもなく、アメリカやイスラムでない国が楽しそうにやってるのを、愛憎半ばした気持ちでみてるんだろうなぁ」というものだった。

結局、テロルというのは、聖戦という名の自殺にすぎない。

同志を募り、自殺に促すには死後の補償という契約が必要である。したがって、本音ではアメリカ的西欧的なる価値観に憧れがあるにもかかわらず、それを認めることができない鬱屈した気持ちの捌け口として、相手にアッラーの敵というラベルを貼ったのであろう。思想的に相容れない相手が繁栄を謳歌していることに対する、愛憎半ばする鬱屈に宗教的使命という仮面を被せ、正当化したとみてほぼ間違いないと思う。

一応、不満を言わせてもらうと、エーリッヒ・フロムに傾倒するあまり、彼の著書からの引用に偏りすぎのきらいがある。

                                                                                             

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2009年10月15日 (木)

オレの信心は親鸞的かも

私訳歎異抄

快: ☆ ☆

五木寛之の親鸞傾倒ぶりは前から知っていたが(ってか、日本の知識人は異様に親鸞好きが多い)、 「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」という親鸞の思想にそれほどの衝撃も受けなかったので、いままで歎異抄を読まずにいた。

これは仏教的に言っても特に新しい思想とはいえないと思う。オレの浅い知識から言うのもなんだけど、仏教は相対主義の思想のはずである。

絶対的な善だの悪だのということは、釈尊も語ってはいなかったと思う。

そもそも仏教には、相反する概念を「即」の一字で結びつけることが多い。色即是空、生死即涅槃、煩悩即菩提などと。

仏教は融通無礙で抽象性の高い思想である。もっとも、仏教といっても、大乗非仏説を唱える者もいるが。

この歎異抄で印象深かったのは、弟子の唯円(この人が著者とされている)に親鸞がこう言っている場面である。

『「たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。』p101~102

親鸞が弟子である唯円に、師匠のいう事はなんでもきくというなら、「人を千人殺してみろ、そうすりゃ往生間違いなしだ」といったらやれるか?と問うたら、唯円は「とても自分には無理です」と答えた。

親鸞は、それが業縁というものなのだと言っているのである。人を殺す業をもっている者はそうなるし、逆に、そういう状況に遭遇してしまう業をもっていたら、その気がなくても殺してしまうこともあるのが人間なんだと。こころの善し悪しで決まるものではないんだと言っているのである。ゆえに、ただ念仏あるのみだというのだ。

これはなかなか深いようでもあるが、ややもすると運命論で終わってしまいかねない思想ではないか?なんというか、大藪春彦の言う、「運命にしたがうも運命、さからうも運命」に近いものを感じるぞ。

もったいないねこの人。妙法を知らなかったのか?あ、大聖人より先に生まれてるのか。

南無妙法蓮華経をしらなんだな。世間的な罪人にも、分け隔てなく救いがあるのは妙法も同じなんだけどね。違うのは、あきらかに念仏は死後に救いを求めるとこか。今世での宿業転換を妙法は説いているからね。

先の例でいうと、人を殺めてしまいかねない状況に遭遇していまう人もいれば、そうならない人もいる、その差はなにか。宿業によるというのが仏法である。

親鸞の思想だと、その業縁の前では人はなす術もないということである。だから、そうなってしまってもあの世で救いがあるようにと阿弥陀佛の慈悲にすがるというわけだ。

それに対して、そのような状況に身を置かずにすむようにと、宿業転換に励むのが妙法である。オレはやっぱり、念仏より題目だな。

が、それにもかかわらずオレは親鸞が好きだったりする(笑)。その信仰態度に共感するからだ。

彼は言う。自分は法然上人の仰せのままに信じているのであると。たとえ師にすかされても(だまされていたことがわかっても)恨まないと。そしてこう言う。

結局、この念仏によって救いがあるのかないのか、「存知せざるなり(しったこっちゃねぇ)」

いいぞ親鸞、その乾いた信心大好きだ(笑)

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2009年9月27日 (日)

私には夢がある

私には夢がある

私には夢がある

1963年8月28日、ワシントンD・C リンカーン記念堂でのあまりに有名な演説、 「私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、兄弟愛のテーブルに仲良く座ることができるようになるという夢が。」他、10編の説教・講演が収録されている。その場にいた聴衆たちの拍手や歓声もあって、その興奮が伝わってくる。

快: * *

『われわれが知っている哲学者の中には、血迷ってしまった者もいる。すなわち、大きな歴史的問題の一つは、愛と力(パワー)の概念が通常反対のもの、両極端のものとして理解されてきたことである。その結果、愛は力(パワー)の断念と同一視され、力(パワー)は愛の否定と同一視されてしまった。権力への意志を説いた哲学者ニーチェをして、キリスト教の愛の概念を拒否せしめたものは、まさにこの誤解である。またキリスト教神学者をして、キリスト教的愛の概念の名の下にニーチェの権力への意志の哲学を拒否せしめたものも、この誤解である。今やわれわれはこの問題を正さなければならない。必要なのは、愛なき力(パワー)は向こう見ずで乱用を招き、力(パワー)なき愛はセンチメンタルで貧血症的であるという認識である。(「そうだ」)最善の力(パワー)とは(「語って!」)(拍手)、最善の力(パワー)とは、正義の要求を具体化する愛のことであり、最善の正義とは(「そうだ」)、愛に反するすべてのものを正す愛のことである。(「語って!」)このことが、われわれが前進していく時に理解しなければならない事柄である。』(P206,ここからどこへいくのか―1967年8月16日,ジョージア州アトランタ、南部キリスト教指導者会議第十一回年次大会)

死をも覚悟して力を持たぬ者たちのために叫び、戦ったキングの烈々たる気迫が胸にせまってくる。

アメリカ社会の黒人に対する差別や弾圧が半端なかったせいか、正義を掲げて立ち上がった側も半端ない闘士を生みだしたようだ。

これが日本なら、左翼臭を放つ青白い人権活動家を出すだけで終わるであろう。

それはともかく、これを読めばわかるのは、キングはけして黒人の権利の獲得のみを目指していたわけじゃないということである。真に神の愛が実現されるような社会を目指しての戦いだったのだ。

ベトナムの戦禍にいるベトナム人にも、アメリカの白人低所得者層にも、差別意識を克服できない白人たちにも、そして憎しみに囚われている黒人たちにも手を差しのべられていたのである。

キングはこのことを強調している。

この戦いを通してわれわれ黒人は、真に白人たちと兄弟となり、友となるようにしなければならないと。白人から虐げられ差別されていた腹いせに、逆に黒人の方が白人より優れているというようなことを主張し、証明しようというものであってはならないのだと。

彼らの公民権運動が白人たちにも共感をよび、大きなうねりにも変えていった要因は、なによりも彼ら黒人たちのアメリカへの思い、アメリカこそ我が祖国という思いであったのではなかったか。

『今、私は感傷的で浅薄な愛について語っているのではない(「もっと語って!」)。私は美的でロマンティックな愛である「エロス」について語っているのではない。また私は個人的友人どうしの親近感情である「フィリア」について語っているのでもない。私が語っているのは「アガペー」〔無償の愛の意〕についてである(「そうだ」)。私は人々の心の中にある神の愛について語っているのである(「そうだ」)。私が語っているのは、一方でその人がなす悪事を憎みつつも、悪事をなす人を愛するように促す愛についてである(「もっと語って!」)。~中略~われわれの目標は決して、白人を打ち負かしたり辱めたりすることではない。われわれは黒人が優越しているという哲学の犠牲に陥ってはならない。神は単に黒人や褐色人や黄色人を解放することにだけ関心を持っておられるのではなく、全人種を解放することに関心を持っておられるのである(「そうだ、その通りだ」)。われわれは断固として次のような社会を作り出していかなければならない(「そうだ」)。すなわちそこでは、黒人が優越していて他の人々は劣等であるとか、あるいはその反対であるとかいうのではなく、すべての人々が兄弟として共に生き(「そうだ」)、人間としての人格の尊厳と価値を尊重しあうような社会をである(「そうだ」)。』(P66~67,われらに投票権を与えよ―1957年5月17日,ワシントンD・C リンカーン記念堂,自由のための祈りの巡礼における演説)

もしも彼らのなかに鼻持ちならぬ優越心や、これまでの仕打ちに対する復讐心のようなものを感じ取っていたなら、白人たちにまで共感を広げることはできなかったであろう。彼ら黒人たちの祖国への愛、愛するがゆえの不正義への怒りがうねりとなって歴史を転換せしめたのではなかったか。根底に愛あったればこそなのだと思う。

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2009年9月21日 (月)

ダ・ヴィンチ・コード

いまさらですが、ダ・ヴィンチ・コードを読みました。近所の図書館で在庫処分としてだしてあったのをいただきました。

ベストセラーにとびつくのが嫌な自分に腹がたちましたね。もっと早くに読むべきでした。

TVで放送していたのを先に見てしまっていたために、展開がわかっていたので面白さ半減しました。といっても、じゅうぶん楽しめましたけど。

これ読んでみて思ったのは、映画よくできていたなってことですね。さすがハリウッド。日本なら、映画化されると原作がだいなしになりますけど。

これについて、著者のダン・ブラウンがインタビューに答えてこう語っています。

『登場人物を脚本に送り込んだ瞬間―ラングドンやほかの人物を小説でどう描いていようが―ベン・アフレックやヒュー・ジャックマンやほかのだれかになってしまいますよね。だから気乗りがしないのです。また、ハリウッドはこうした小説をマシンガンや空手チョップ付きでパリを駆けめぐるカーチェイスに変えてしまいがちです。それでかなり抵抗があるのですが、洗練された映画を作れる数少ない人たちとは話を進めています。映画化権を売るとしたらこうした人たちだけですし、しかもわたしが内容の大部分に口を出せる場合にかぎりますね。』(ダン・バースタイン・編,『ダ・ヴィンチ・コードの「真実」』P33, 竹書房 2004) 

作家たるもの、これくらい言えなきゃだめだよな、と思いますね。映像化されることで金ははいるだろうけど、原作がだいなしにされることに抵抗を感じないようでは二流ではないか?

それにしても、キリスト教というのはいろいろ奥が深いですね。いや、教義が深いというのではなくて、その歴史的背景にいろいろ謎が多いという意味で。興味は尽きません。聖書にも暗号がいくつも隠されているとかなんとかいわれてますから。

『ラングドンは微笑んだ。「ソフィー、世界じゅうのすべての信仰は虚構に基づいてるんだよ。信仰ということばの定義は、真実だと想像しつつも立証できない物事を受け入れることだ。古代エジプトから現代の日曜学校に至るどんな宗教も、象徴や寓話や誇張によって神を描いている。象徴は、表しにくい概念を表現するひとつの方法だ。それを丸呑みしないかぎり、さほど問題は生じない」 ダ・ヴィンチ・コード㊦,P152』

そのとおり。虚構、仮説であるからこそ信じるのでしょう。人間がどこから来てどこへ向かうのか?この世とはなんなのか?なぜ世界は存在しているのか?どれも答えられない。しかし、その答えられないことにも意味を与えたくなるのが人間というものなのでしょうかね。すでに解っていることなら、信じるもなにもないわけで、解らないことだから信じる信じないという態度をとるのでしょう。

俺としてはキリストが人の子であるのはあたりまえの話で、それのなにが気に入らないのかが分からないのですが。仏教徒や不信心なものからしたら、キリストはひとつの宗教の教祖という見方をしてしまうのだけど、信者にしてみたら、教祖=人の子というイメージになるのかもしれませんね。あくまでもキリストは神と同格でなければならないということなんでしょう。

とにかく本を置くのも躊躇われるほどのおもしろさでした。

快:* * *

ダ・ヴィンチ・コード(上)      ダ・ヴィンチ・コード(下) 

 ダ・ヴィンチ・コードの「真実」

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2009年8月24日 (月)

Last Man At Arlington

ジョゼフ・ディモーナ 著,「アーリントン最後の男」 を読んだ。1982年の小説だから、けっこう古い。

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これを読んでみても思うのだが、あの当時のケネディ人気っていうのは、ほとんど宗教的熱狂に近かったのではないだろうか?

これは、ケネディに熱をあげた愛国青年が、ケネディ政権にかかわりのあった人たち6人を順番に殺害していくというもの。そして、そのうちの一人である合州国司法省次官補ジョージ・ウィリアムズが事態の解決にのりだす。

このジョージ某が司法省きっての切れ者で、この不可解な犯人を追いつめていくのだが、なにしろ動機が分からない犯行なのだ。

ケネディの十回忌に合わせた犯行という脅迫文が、なぜかジョージ・ウィリアムズのもとにだけ届いた。あとの5人はといえば、ケネディとのかかわりも、あるって言えるほどのものではないのだ。

なぜこの6人が死なねばならないのか?しだいに明らかになる犯人像。奴はヴェトナム帰還兵のようだ。しかしあとの5人はなんだ?この人選がとにかく謎なのだ。

ってわけだが、後にあるVTRを見てびっくり?

「え、これだけのことで?」

「あのときの彼らが今こうなっちゃったのが許せないからってことで?」

そんな、分かるような分からないような動機から犯行におよぶ犯人に対して、しかしウィリアムズは、すくなくとも自分には狙われる理由があるということを知る。

ところで、気になるのは、これにたびたび出てくる「オリンピアン」なるものである。秘密組織のようだが、それにはCIAがからんでるようで、このケネディ狂の犯人はこれに人生をくるわされたようなものなのだ。かわいそうではあるが。

ただ、このケネディにもいろいろと黒い話があるんで(歴代大統領のなかでも、抜きん出て政敵の暗殺にせいをだしたともいうが)、人物を評価するというのがいかに難しいかってことを考えさせられる。

チェンジ!で熱狂させたオバマをケネディにたとえるぐらいだから、ケネディという存在は希望の象徴みたいなものだったのだろう。

快:*

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2009年8月22日 (土)

さすが文化大恩の国(失笑)

勘弁してほしいわ。博正さん何を話してきたんでしょうか。

お願いですから、あんな国に媚び諂うのはお止めくださいね。

しかも、釣魚台迎賓館ですと!政治的意図がありありじゃないですか?

ここに招かれて会談ですか。

支那政府からしたら、政権政党を持っている組織だけに、利用価値ありというわけですな。

わかりやすいっすね~。

尖閣諸島と言いますんで、覚えておいてくださいね支那の皆さん。

さらにこんな記事もある。

リンク: <a title="おかしな中国の常識?「ごめんなさい」と言わない中国人の夫―中国 - 速報:@niftyニュース" href="http://news.nifty.com/cs/world/chinadetail/rcdc-20090816017/1.htm">おかしな中国の常識?「ごめんなさい」と言わない中国人の夫―中国 - 速報:@niftyニュース</a>.

やつらが謝るわけがない。

『自分に不利になる事は一切無視する。決して謝らない。そして、平気で嘘をつく。それが、五千年の歴史に息づく中国人のDNAなのだ。』(若宮 清,『中国人の99.99%は日本が嫌い』ブックマン社 2006,P16)

これ、とにかく読んだほうがいい本です。支那との友好を口にしている人は多いが、もしも、同じ人間なのだから誠実に向き合えば必ず理解しあえるなどというほほえましい前提にたっているのなら、その前提は捨てるべきだ。そう言わざるを得ない事例が多すぎる。

ところで、この本を読んでいて思わず膝を叩いたのが、無能な外交しかできないのなら国連など脱退すべきだという主張である。 よくぞ言ってくれましたと言いたい。

『国連の分担金はアメリカが22%、日本19.5%、ドイツ8.7%、イギリス6.1%、フランス6%、となっており、中国に至っては2%に過ぎない。アメリカの分担金は22%となっているが、実際の支払いは遅延続きで、実質国連を支えているのは日本だ。常任理事国にもなれない日本は、この際、その負担額を5分の1程度に軽減してもらうか、いっそ脱退を宣言してもいいのではないか。 国連と言う組織がほとんど機能しなくなっていることはイラク問題でも判明しているし、インド、パキスタン、イラン、北朝鮮の核問題を見ても明らかだ。一方で汚職、賄賂、セクハラ問題等、腐敗スキャンダルのたぐいは枚挙にいとまがないし、「発展途上国の最高の就職先」という陰口もいまや公然の事実になっている。そんなところで、いつまでもキャッシュ・ディスペンサーの役割を担っている馬鹿な外交など、私にはとても信じられない。』(同,p232-233)

俺も信じられませんね。でも、こんなろくなもんじゃねぇ国連を支援し続ける事が、日本の進むべき道だと信じて疑わない素敵なひとたちがいるらしいですね。 外務省の方たちとか。

立派な人たちですよね、ほんと。東京大学という最難関の学府をでたエリートと呼ばれている方たちですよ。 さすがにエリートですね。すてきに日本をミスリードしてくれますわ。

「外務省はODAを軍事力を持たない我が国の唯一の外交カード」だと本気で思っているみたいですね。

だいぶ疲れてるみたいですね(u_u。)

『2003年4月に国連人権委員会において、「北朝鮮の人権状況に関する決議」が採択された。ここで日本人が一番関心を持つのは、もちろん拉致問題であり、この審議でも拉致問題解決が謳われていた。だが、ナントこの人権委員会、加盟53カ国の中で、日本人拉致解決に賛成したのは28カ国だった。約半分である。インド、パキスタンなど14カ国は棄権し、10カ国は反対に回った。反対国には中国がもちろん入っていた。 このとき、国民的関心事である拉致問題解決に、日本のODAは何の役にも立っていないことが証明されたのではないだろうか。日本の外務省の能力とはこの程度であるのだ。』(同,p230-231)

日本て、金を無駄に捨てられるほど余裕ありましたっけねえ?そろそろ阿呆な金の使い方やめてくんねえか?

日中友好の金の橋、文化大恩の国。。。

失笑

『朱に交わっても決して染まらない民族。それが中国人だともいえる。 このことを理解せず、ひたすら媚び諂い、上っ面の“友好”を求めてくる日本の政治家や経済人、マスコミなどは、彼らにとっては赤子の手をひねるより簡単に手玉にとれる存在ということだ。 中国人は相手が強い立場にあると思ったら“友好”を口にし、「協力」や「合作」を提案してくる。しかしいったん「弱い」と認識したら、そんな前言などさっさと翻し、がんがん責めてくる。それが彼らの行動原理だということを、中国人相手の交渉では決して忘れてはいけない。もちろん政治・外交に於いてをや、である。』(同,p128)

そして、この朱に交わっても決して染まらない人々がいま、この国土に何10万人もいると言われている。

定住するしないはよしとして、永住を決めた者には国籍なくても参政権を与えようなどどいう、すてきな売国奴どもがこんどの選挙に大勝しようとしているわけダー。 やつらのほざく、政権選択選挙というスローガンをマスコミも一緒になって既成事実化しやがって。

薔薇色の未来が待ってるってとこかね?俺には、日本人が日本人として生きていける場所が、いずれなくなる気がするんだけど。

不快:××

中国人の99.99%は日本が嫌い

著者:若宮 清
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